その2

「どうしてバスの座席は、進行方向に対して垂直ではないのか」と少年は叫ぶ。叫ぶのだが、それは空(くう)に向かってであり、回答を期待するものはないように感じられた。
「今の日本、いや現代日本の状況は、全てが傾斜しているようです。このバスの座席がその典型です。私たちは安楽を求めて鉛直ではなく、傾きに身をまかせます。くだらないでしょう。破綻しています。やる気が失せます」と少年は続ける。

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新横浜のホテルの一室の暗がりで、床にすわりこみ、コンビニの袋から食物をはみださせながら、F先生がパンを食べる姿がフラッシュバックする。僕は、新横浜に降りたことはなく、脳内のホテルで、フランツ・カフカの「わが民族の圏外、わが人類の圏外に立っていて、いつも餓死せんばかりである」という霊示のようなF先生は、人類のすべての虚妄を飽食するかのようである。
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「循環バスは円運動です。トポロジー的に、円と同相です。しかし、この循環バスは、8の字に運行されています。これはどういうことでしょうか。異常な形態です。簡単に言うなら、この循環バスは1台でなく2台必要だということです。8の字の上の円と下の円のそれぞれを走る循環バスが必要なのです」
乗客の一人の女性−大柄の花のシャツを来ている太った女−が突然しゃべり出した。
「あなた、馬鹿じゃない。円だろうが8の字だろうが、バスの座席が垂直じゃないだろうが、あなたのしていることと−つまりバスジャック−何の関係があるのよ。ごたくをならべるのはやめて、さっさと、降ろしなさいよ」
少年は笑い出した。とっても愉快そうに。

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F先生の文章から啓示されることは、それはとてつもなくリアルな個人的環境からの全体へのメッセージであり、何をなすべきであるかでなく、何もなさずとも「ある」ということとそれに付随する生の痛みようなものかもしれない。
なにもなさずとも「ある」ということは、苦行のようなものであり、同時に、文章の生成により、なにかをなすという意味があったのかもしれないが、F先生にとって、文章に意味を持たせることの否定は、現実生活の記録によってなされ、過去の再現によって否定の肯定がなされていくようであった。
実際に、F先生の文章は、その内容がどのように陰惨であっても、過去は生き生きと描かれ、現実の生活の記述はどのように楽しいものでも暗くよどんでいたように感じる。これは、よどんでいたから悪いとかの問題は超越しているのであるが。
F先生の文章が、過去と現実を波のように繰り返すのは、意味の喪失にあったように感じる。過去の生き生きとした記憶と現実の生活を平坦につなぐには、意味の喪失を必要にしたのではないだろうか。
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少年は笑いをかみ殺しながら言った。
「都市生活者諸君。無限連関の中で、私たちの生活はなりたっています。昨日の夕食は何を食べましたか。屍肉を食べたでしょう。わたしという存在とわたしでない他の生物の死骸が、昨日の夕食の場でご対面するのです」
少年は少しだけ間を置いた。
「花柄のおばさん。失礼。レディ。あなたのふくよかな肉体を形成しているのは、他のモノなのですよね。他のモノをごった煮して身にまとい生きているんです」
少年は楽しそうにニッコリとして言った。
「みなさんをこのバスに閉じこめているのは人類に対する罰です」