武器を手にして踏みしめるイラクの意味

明日にでも、イラクへの自衛隊「派遣」を閣議決定しそうである。「派遣」は派兵と同じ意味でつかってみた。報道http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200312080273.htmlによると、対戦車砲や無反動砲も携行するようだ。

しかし、同時に自衛隊行くなら非武装でという記事http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200312080265.htmlもある。どちらの記事に説得力があるかというと明らかだ。第2次世界大戦後、米軍が日本に進駐する時、米軍を鬼畜とののしり、集団レイプ事件が多発すると怖れ、男は殺されると怖れた。今のイラクにとって、軍隊がイラクの復興だといっても、それは、どれだけの説得力があるのだろうか。

イラクの復興に対して、どのように日本が対応するのかは大きな問題であるが、現時点では、イラク国民はイラクのために日本の自衛隊は来たのではなく、アメリカの侵略を援助するために来たものだと判断されても、いいわけもできないだろう。だって、大量の兵器を抱えてくる人を見て、そらが友人だと思うだろうか。

玄関のトビラを開けるものが、武装した兵士であれば、当然、警戒するものだ。それが、破壊した者と手を取るのであれば、友情も生まれない。以前、別のサイトでユニラテラリズムについて、アメリカの動向に警鐘を鳴らした。アメリカの行動は、東西冷戦構造の崩壊後加速して、一国主義になりつつあるように感じる。

それは、「アメリカの正義」であり、それに対抗するものは道理が無くとも、武力でねじ伏せるようなものである。今度、アメリカへの莫大な資金援助を小泉首相は約束したが、裏では、アメリカの国債でそれ以上の借金棒引きをしているらしい。

イラク国民が、劣化ウラン弾放射能被爆で苦しんでいる。とりわけ、子どもたちは、白血病甲状腺癌で苦しみながら死んでいる。なにゆえ、僕らはヒロシマナガサキ被爆の実相を知りながら、武器を手にしてイラクの大地を自衛隊が踏みしめることを許すのだろう。僕らは抵抗しなければと、少なくとも、それを表現しなければと、それができるのは今だと。
そのように思ってしまう。