誹り

全ての歴史がそうであるように、あの時、どうして、その時を生きた人が戦争への道を反対しなかったろうかと疑ってしまう。先まわりして歴史を眺めることが出来るのなら、今の時点で反対しなければという使命感も生まれたのであろう。

今年は6月6日に感じた「有事法制」制定の無力感以上に、今日、ついに、憲法9条の理念は踏みにじられて、ごみ箱に捨てられたという意識を持つ日はなかった。抜け殻の憲法を持つ国が他国の復興だとは、片腹痛く笑止千万である。

使い捨てのように人命をあつかう国家に、将来を期待すべきも無く、理念なき盲従の国家は、その判断において、国民は消耗品であり道具である。ブッシュへのへつらいは、愚かにしてとりかえしのつかな結果を生むのだろうが、その弁解はいらない。

自衛隊歓迎の横断幕を映すニュースを見て、そこには日本人であって、軍隊装備の日本人を歓迎するのは、その地の利権なんだろう。横断幕を掲げる余裕は少なくとも利権絡みであるように感じてしまう。温泉宿のごとき歓迎看板には、少なからずの下心が見える。

病院や学校や下水道を整備するのは自衛隊でなくてもいいのだと思う。ひっそりと着実に活動していた良心的な支援団体はテロの対象とされ、今後のまともなイラク復興は頓挫する。

加速するテロにより安全保障の問題は、さらにアメリカに傾倒するであろう。そこには安全スパイラルの地獄があるように見える。それが単なる危惧で終わればお笑い草である。どのように馬鹿にされようとも、そうであるのなら、僕はその誹りを受けなければならない。いっそ、受けた方がいいのだが。