「ドキュメンタリー」「死の国の旋律−アウシュビッツと音楽家たち」

昨日、サッカーを観るためにTVを夜中につけた。それがために、偶然にも「死の国の旋律−アウシュビッツと音楽家たち」というNHKの番組を見る幸運を得ることが出来た。

この番組はゾフィア・チコビアクという老婦人の証言である。今まで、心の内に仕舞っておいたものを、80も後半になり、死を前にしてカメラを前にしてポツリポツリと語り始める。アウシュビッツ強制収容所で生き残るために音楽隊に入る。この楽隊でナチス幹部たちに音楽を聴かせることで生き延びることができる。

ゾフィアはここで一つのユダヤ人への裏切りを感じている。自分が生き残るために演奏し、ナチス幹部を喜ばせる。ユダヤ人を苦しめている人々を喜ばせて、自分が生き残るという選択をしている。

その内に、アウシュビッツの引き込み線で貨車に満載されたユダヤ人が運ばれてくる。ゾフィアたちは、彼らを歓迎する楽しげな音楽を演奏させられる。その演奏の前で、ユダヤ人は強制労働組とガス室行きに分けられる。風に乗って、彼らの言葉が聞こえてくる。
「音楽もあるのだから、ここは案外いい場所じゃないのか」
そして、彼らはガス室に送られ、焼却される。

ゾフィアは悩み、所長に申し出る。
「音楽隊を辞めたい」
所長は言った。
「音楽隊を続けるか、強制労働かだ」
ゾフィアは恐怖した。
彼女の結論は音楽隊を続けることだった。
彼女は言った。「敗北。」

地獄の収容所で、それでも「究極の良心」を見たとゾフィアは語った。その一つは助産婦のマリアがユダヤ人の赤ちゃんを出産した時、その場で殺せと命令された。
マリアはその命令に従わなかった。
何度も遠い道のりを往復して、お湯を運び、赤ちゃんたちを「産湯」につけた。
赤ちゃんは殺されるとわかっていても。

戦後、彼女は、その当時演奏した音楽を聴くことができなかった。演奏会に行って、偶然に、その当時に演奏していた曲があり、彼女は卒倒した。
・・・
彼女は人と関係を結ぶことが出来なくなっていた。何度も悩み抜き、彼女はアウシュビッツに向かう。ここで、自分と同じようにアウシュビッツに来ている多くの人々がいることを知る。彼女はアウシュビッツが、自分に安らぎを与えることを知る。それは、皮肉かもしれないが、そのエネルギーを感じた。

ゾフィアは人生最後のアウシュビッツ行きを実行する。音楽隊の友人の墓をまいり、自分が病気であまりここに来れなかったことをわびる。親衛隊の目を盗んで休んでいた収容所の壁際の場所を見つけゾフィアは座る。

戦争は国家の個人への介入の最たるものである。これを認識させるに充分の番組であった。国家により「引き裂かれた自己」を回復することは極めて困難である。それは一生にわたって十字架のように重く背負わされる。引き裂かれたものを繋ぎ合わせて、また、引き裂かれの繰り返しである。

イラク派兵を決めたこの時期にこの番組が放映されたことに、僕は意味を感じている。残念なことは、深夜の極めて視聴率の低い時間帯であったことなのだが。イラク戦争イラク国民も参加する兵士も、国家により多かれ少なかれ引き裂かれる。それが戦争の現実なのだと思った。