死体の山が築く平和

公明党の神埼代表は21日未明の記者会見で次のように述べている。
http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200312220262.html
「もっと危ないと思っていた」という表現は、相対的な比較の問題だから、絶対的な危険度を表すものではない。少なくとも現地で1カ月は過ごし、つぶさに観察したものでないから、レベルとしてはちょっとした感想のようなものだろう。4時間に満たない滞在ということを報道していたから、現地の状況を把握できること自体が不可能だろう。

その後、散髪問題で、再度、記者会見して次のように述べている。
http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200312220262.html

「私ですら散髪に行く時はSPがついてくる。衆議院の理髪店が危険だからついて来るわけじゃない。警護の人がいたからといって、そこが危険だということではない」

どうも、これも説得力がないが、銃器を構えた軍人の護衛とSPとは似もせず非なるものであろう。
以前の日記にも書いたが、このようなパフォーマンスは、イラク派遣を容認するために仕組まれたものとしか受け取れない。

昨日のNHKの「大量殺戮兵器の完成」を観て、第一次世界大戦がもたらした戦争の変容は、多大なものであった再認識した。過去の戦争が運命共同体的、局所的な戦争に対して、効率的な殺戮マシーンをつかった殺人合戦になってしまった。その延長上に第2次世界大戦は、もっと広範囲に、もっと大規模に効率的に人殺しをするものであった。司令官は前線から離れた安全な部屋で命令を発し、兵士はその命令によって動き、殺し合いを演じる。まさに、司令官は舞台監督よろしく、メガホンで指示を与える。

さらに、戦争は進化し、離れた場所からのミサイル攻撃や戦闘機によるピンポイント攻撃は、人間から「自らが死をもたらす者」という感覚を遠ざけてしまう。コンビニの入り口のごみ箱にポイとゴミを投げ入れる感覚というのは言い過ぎかもしれないが、発射されたミサイルは標的に向かって自動制御される。その先の人間が内蔵をさらけだして、5体が吹き飛ばされようが、ミッションの成功が重要である。

「僕は貴重なアメリカのお金でつくられたミサイルを敵に叩き込んだのだ」
勲章と年金と誇りは増えても、何ら恥じることは微塵もないのである。なぜなら、「やらなければテロでやられる。9・11の惨めなニューヨークを想いだすんだ。」ということかもしれない。

死体の山が築く平和は、年々、その大きさによってのみ、形をなしていく。
死と生が分化される戦場は冷酷と悲哀が分離され、原罪の裁きからも人間は遠くに置かれてしまう。戦争により国家と産業と軍事の複合体制が強められ、イラク戦争によって戦争の民営化が進んだ。まさに、ボーダレスな規制緩和は戦争に及び死をもって私腹を肥やす個人を増殖させ、国家を腐らせる。そのように思ってしまう。