テッサ・モーリス=スズキ

今日の朝日新聞の15面に、テッサ・モーリス=スズキ氏の「自らの民主化こそ必要」という記事を読んだ。共感を覚える文章であった。
1990年のアメリカ・ミズリー州のフルトンという町でのレーガン演説のことをとりあげている。

フルトンという町は、ウィストン・チャーチルが「鉄のカーテン」という言葉をつかって演説した町である。ここで、冷戦の勝利を祝福する記念碑」の除幕式があった。この碑は、冷戦の象徴であるベルリンの壁の壊れたレンガでつくられたものであった。この町で、レーガンは、多分にチャーチルを意識したのだろう。

この記事で、レーガン演説の次の部分を引用している。

「世界中の神の子(=人間)がいかなる障害もなしに生きられる日が訪れるまで我々は更に励まねばならない。また、その日こそ、歴史上もっとも偉大な帝国が完成する時でもある。」

筆者は、アメリカは「ある神聖な使命」をおびた特別な国であると表記している。その時からイラク戦争までを見れば、この東西冷戦の終了から今のアメリカのありようを予言したような、言い換えれば、その進むべき道を指し示した演説であったのかもしれない。

冷戦終結後のアメリカは「自らの国益」を守るために、いや、拡張するために、国連を無力化することをめざした。筆者はこのことを次のように述べている。

レーガン及びその後継者たちによって定義されたところのアメリカ民主主義の勝利とは、地球レベルでは「民主主義の不備」の強制にほかならなかった。"
さらに、一歩すすめてテッサ・モーリスは次のように分析している。
"レーガンナショナリズムは、他国のみならずアメリカ内部の民主主義も侵食した。なぜならそのナショナリズムとは、アメリカの人間性を特異な代表と規定した自画像の宣伝でもあった。

まさに、アメリカは権力を集中化させ、その集約として大統領に権限を委譲している。まさに、「我々が世界である」ことを偶像化したものがアメリカの大統領であると言わんばかりである。

アメリカが自由の象徴であり、少なくとも資本主義のシンボルであるならば、その民主主義の確立のみによって支えられるように思う。実際、M・クレソンやB・ギンズバーグは、アメリカの政治が「権力者によって私益化されている」と指摘している。これは、イラク戦争によって企業が軍と複合化されビジネスになったことを見れば明らかなように思う。

まさに、日本の自衛隊は、そのようなアメリカの一部の私益の戦争を支援に行くのである。そこには、大義も正義もなく、まさにグーロバリズムの世界植民地化政策の一翼を日本が目に見える形で担うことである。
この記事を読んで、さらに、そのような現実を強く感じるのである。