スリーマイル島原発事故は何を語るのか

中尾ハジメ氏のWEBサイトにある「科学にあざむかれた住民たち」を読むと、アメリカの政府機関がいかに原発事故(スリーマイル島)を小さく見せようとしていたのかがよくわかる。それ以上に、原発事故を体験する住民と科学者の認識の差が明らかになっている。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/archives/contaminated/contaminated.html

もちろん、事故にかかわりなく発生するガンもある。どのガンの発生が事故によるものかを確定することは、およそ技術的に不可能であり、莫大な賠償金を覚悟しなければならない。世論はどうなるだろうか。原子力産業には致命的な打撃になるにちがいない。

ここで注意をしてもらいたいのは、ガンの発生が原発事故によるものかそうでないかは技術的に困難であるということである。つまり、個々の事例については、原発事故による放射能汚染物質によるガンであるかは困難であるか、長期の原因究明によって、その因果関係が証明されるかもしれないということである。

統計的な手法で原発事故による汚染地域でガンの発生率が高いということがどの程度証明可能であるのかが次の問題であるが、行政側は個々の問題にすり替えることや、被害の程度を問題のないレベルまでにすることで、問題のないものとしている。
中尾ハジメ氏は、多くの住民の放射線被害事例をあげた後で、次のように述べている。

「アーモット調査」が対象にしたのは、こういった事故当時の体験をかかえる集落だった。あるいはメアリー・オズボーンが異常な植物に注目せざるを得ないのも、このような体験があってのことであり、一方で、貧弱な測定値にもとづく机上の推定評価ばかりが、あたかも科学的真実であるかのごとく出まわっているからである。

また、スリーマイル島における科学的放射線量の評価については、中尾氏は次のような指摘をしている。

住民の被曝線量評価に直接影響する放出放射能量の評価などは,むしろますます小さく算出されていく傾向さえある。それは,ちょうど原子炉内部の破壊状況が,日をおってますます大きく深刻なものであることが明らかにされてくるのに反比例するかのようにもみえる。日本の電力会社や原子炉メーカーがアメリカに送りこんだ技術者たちの報告書には,環境中に放出された希ガスは全量の〇・五パーセントにすぎない,ヨウ素もごく微量でしかなかったとするものがみられる。当初の,電力会社あるいは政府の公式報告書にみられた希ガス放出量の,二〇分の一あるいは四分の一という数字である。この新たな評価の具体的根拠はまったくはっきりしないが,まるで,すべては,被害はなかったといえる住民被曝量の範囲におさまるよう,さまざまな数値の矛盾をならし,つじつまあわせをした結果のように思えてしまう。

ここで問題になるのは、事実だと思われる放射線量の科学的測定量について、モニタリング体制、測定方法、測定機器の精度、解釈の仕方(一定の数値の変換式)をふくめた理論の問題で、放射能が地域住民の健康に被害をもたらしたとも、もたらしてはいないとも解釈できる。つまり、原発推進派は放射線の影響を最小にとらえようとするし、背後にある権力と財力によってその方向にしむけるわけである。また、原発推進派は、放射線の影響を最大限にとらえようとする。

さらに、中尾ハジメは次のように言っている。

周辺50マイルの200万人にたいする影響は極小であり無に等しいのだ。これが10年近く不変のままの公式見解である。極端にいって、機械装置にかけるだけの時間も金も、人間の問題にはかけていないのだ。原子力発電の思想というものがあるとすれば、それはこのことに象徴されるように、機械の崇拝、機械への隷従だといっていい。

ここでは「機械の崇拝、機械への隷従」だと言い切っている。ここでの「機械装置にかけるだけの時間も金も、人間の問題にはかけていない」という中尾の提起は、僕は次のように解釈する。

原発推進派は、科学という絶対的な解釈の方法を利用して、「原発被害を最小にするか、なかったことにすること」を「機械」と机上の放射線数値理論に置き換えたということではなかろうか。一方、反原発グループは、そこにいる住民の体験と健康に対する被害状況をつぶさに調べながら、その実態をもとにして、原発事故における放射線数値をはじきだしている。

さて、ここでのすれ違いをどのように説明すればいいのだろうか。再度、森住氏のサイトの言葉がよみがえる。
「ジャーナリズムの役割は科学的に立証されないから伝えられないと言うのではなく、 そこに苦しんでいる人々がいて、その原因が劣化ウラン弾の疑いが濃厚の時、 その原因の究明のためにも、現場で起こっている事実を積極的に伝える事が使命ではないでしょうか。」
もし彼が確信犯的に因果関係の立証できない−できないが苦しんでいる人がいる地域に出かけ写真をとっているとしたら−その原因を放射線に求めたとしたら・・・。

そのことをどのように評価するのか。よく言われる「左翼プロパガンダ」とか「反アメリプロパガンダ」、「反核原発プロパガンダ」などの言葉の輪切りに押し込めていいのだろうか。浅薄な言葉の規定概念に押し込めることは簡単だし、それですめば、世界の構図は色鉛筆で地図を塗るように気軽である。

その本質の一つが、「科学がどれほど正確に世界を測定できるか」、付け加えれば「どれほどの時間が必要なのか」ということなのだろう。僕らの目の前にガンの子どもがいてもそれが、放射性物質によるものか、それとも他の障害によるものかを簡単に見分けることもできない。それが、核兵器の実験場所の近辺だったり、原発事故の近くの町であったり、劣化ウラン弾の使われた戦場の近くだったりすると・・・。

核兵器を管理する軍部や政府は、その実験の必要性と安全性を言い張り、原発を推進する政府や企業は健康被害の無実を言い張り、劣化ウラン弾をつかう側は健康への影響をないとする。それらの近くの住民や市民は、その健康被害を糾弾する。ジャーナリストは二手に分かれそれらを勇気づける。そこにはプロパガンダも存在する。

再度、中尾の授業の最後にホワイトボードに書いた言葉を思い出そう。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/class/journalism_2003_01/journalism_10.html
授業の最後

「事実は一方的な情報の中では存在しない。事実は対話的(双方向的)な関係の中で創造される。」