ジャーナリズムと劣化ウラン

昨日、森住卓氏のWEBサイトの一部についての批判を書いたが、ベッドで横になって、考えている内に僕の表現のマチガイとか、ジャーナリズムとは何かなどと考えているうちに迷路に迷い込んだような気分になった。昨日の森住氏の「BS23出演辞退」の言葉に表された「科学の証明の問題」「ここにあるものを伝えること」「ジャーナリズム」などと「プロパガンダ」が渾然一体となって頭の中をかけめぐった。

一体、森住氏はジャーナリストなのか。僕は昨日、「世界をまたにかけるジャーナリスト」という形容をつかったが、それはマチガイではないと思うが、ではジャーナリストとは何なのだろうか。漠然とした気分だけでジャーナリストという言葉をつかっている自分に気づいた。ジャーナリストが世界のどこかの様々な現象を文章や写真や本や講演で伝えることはどのような意味をもつのであろうか。彼らがおこなう取材や情報収集はどのような行為であり、それを世界に発信するということはどのようなことであろうか。

ジャーナリストという肩書きをもつものがジャーナリストなのか。
「ジャーナリストとは誰なのか」
わかったようでわからない質問を自分にあびせた。

中尾ハジメ氏の授業記録[第10回「事実」と「虚構」]の最後に次のような一文がある。
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/class/journalism_2003_01/journalism_10.html

それから、科学者でなくても、みなさんでも科学的に考えようとするところはある。そういう自分が考えようとしたことを記録したり、あるいはそれをさらに「いや、こんなふうじゃなかった」と、いろいろ書き直したりするということも、ジャーナリズムの過程のなかに当然含まれる。それは書く人がとにかく考えないといけない。だからけっして何か自動的に写しとってできあがるもんじゃないということを、よく考えてみてください。

「事実は一方的な情報の中では存在しない。事実は対話的(双方向的)な関係の中で創造される。」

たとえば、劣化ウラン弾の問題で考えてみる。
イラク白血病などのガンや奇形などの障害をもつ子どもが病院にいる。病院で治療することもできない子どももいる。これは現実である。彼らの発症の原因が劣化ウラン弾による放射能や化学毒性によるものであるかどうかは、はっきりと結論がでた問題ではない。

多くの反劣化ウラン弾グループは放射能による被ばくを中心問題にして、劣化ウラン弾の使用停止を求めている。劣化ウラン弾推進(容認)グループは、劣化ウラン弾の化学毒性と吸入による非溶解の酸化ウランの被ばくの可能性は認めながらも、それらが実際的に劣化ウラン使用後に健康を害することを否定している。

ジャーナリストの特権は、そのように考えが対立し、相いれない状況の中に立ち入り、その実相をつかむことができることである。劣化ウラン弾がもららす悲劇を克明に伝えるためには、そこには、劣化ウランによりもたらされた事実とその結果起こりうるであろう可能性を科学的に検討せねばならない。つまり、いまある悲劇を記録媒体に写し取り、そのような状況をもたらしたであろう原因を追及することにジャーナリストとしての使命があるように思う。

中尾ハジメ氏は授業でホワイトボードに書いたこと

「事実は一方的な情報の中では存在しない。事実は対話的(双方向的)な関係の中で創造される。」

が意味することは何だろうか。
一つには一方的な情報にだけ耳をかさずに広く聴き、その中から事実に即することをひろい上げることだろうか。もちろん、ジャーナリストには直感も必要だし、ひらめきによってつながる情報で、思わぬ発展もあると思う。

さらに、対話的関係の中で創造されるという面も重要な指摘である。ジャーナリストは単に送り手になってはいけないのだろう。これは、情報収集や調査の最中にも大切なことではないだろうか。自分が調べたことや情報を送りだすことだけでは、新聞が情報を一方的に流すことと変わらない。時代の風を鋭く感じとるためにも、「その悲劇」に直面する人、関係者、また、その原因をつくりだしたと思われる人々と語り込むことが重要な作業だと思う。

昨日も書いたが、森住氏の「ジャーナリズムの役割は科学的に立証されないから伝えられないと言うのではなく、 そこに苦しんでいる人々がいて、その原因が劣化ウラン弾の疑いが濃厚の時、 その原因の究明のためにも、現場で起こっている事実を積極的に伝える事が使命ではないでしょうか。」という言葉が気にかかる。これは、「科学」と「体験」の相克かもしれない。科学で実証されなければ、この状況を伝えることができないことは、それは禁欲的科学主義と言うべきものである。かといって、「体験」したものを科学的根拠を抜きにして、ある一定の価値に近傍させることは発情的体験主義なのかもしれない。そこで、科学と体験の間でゆれが起こるのであろう。

中尾ハジメ氏が授業で森住氏のことをとりあげている。長くなるがその部分を引用する。(短く引用すると作為的だと感じられるおそれがあるから)
http://www.kyoto-seika.ac.jp/nakao/class/journalism_2002_01/journalism_09.html

セミパラチンスクをめぐる写真ジャーナリストと科学者の立場
さて,セミパラチンスクっていうのを聞いたことがあるかい? ちょっと参考までにお伺いするけど,セミパラチンスクって聞いたことのある人? (知っている学生はいない模様) おう,見事にいないな。確認のために,聞いたことのない人は手を挙げて?(だれも手を挙げない)。見事にいないな(笑い)。「セミパラチンスク」についてこんな本があるのですが,ソ連というものがあったときに,セミパラチンスクというところで核実験を何百回もしたね。そのセミパラチンスク。

それで,これからお見せするのは,森住卓という人が取った写真で,これは写真集になってます。(『セメミパラチンスク──草原の民・核汚染の50年』高文研,1999年。いくつかのページを,スクリーンに映して)こんな本だね。まずこういう写真が出てきます。

「1953年,初の水爆実験が行なわれた。」──水爆というのは,原子爆弾と違います。知ってるよね? 水素爆弾を略したんですね。あとでまた説明するかもしれません──「周辺の村には避難命令が出されたが,タイナール村では42人の男が村に残され,核実験を見物させられた。」──42人が残れって言われたんですね。──そのうち「41人はガンや白血病で亡くなった。エレオガゼさんはたった一人の生き残りだ。」──この人はエレオガゼさんといいます。──「現在,皮膚がんと肝臓障害に苦しんでいる。(1997年8月)」── 写真をとったのは1987年8月です。

この写真はベーリック君といいます。年齢は書いてないんでちょっとよく分かりませんが──「ベーリック君と家族。ここは原子の湖……」──「原子の湖」という湖があるようですが──「から50kmしか離れていない。汚染された村などは現在も厳重監視区域になっている。(ズナメンカ村1997年8月)」──ズナメンカ村というところで1997年の8月に撮った写真だね。

水頭症のオスパノワちゃんは生後9ヶ月。セミパラチンスクの近くのポストチナヤ村に両親は住んでいる。(セミパラチンスク子どもの家1998年5月)」これは「セミパラチンスク子どもの家」というのがあるんですが,そこで撮られた写真ですね。1998年5月。

「ヌルラン君は小学校三年生の時,突然歩けなくなってしまった。父親のジュマルトさんは白内障の手術をしたんが,見えなくなってしまった。『核実験のせいだ』と言っていた。(ドロン村1995年5月)」

「ジャヌスさんはモスクワへ行って初めて村の核実験被害を訴えた。」──モスクワまで行って核実験の被害があったということをこの人が訴えたんだね。──「『それなのに何もしてくれない。祖国に裏切られたという気持ちでいっぱいだ』(ズナメンカ村1997年8月)」

というような写真が載ってるのですが,……例えばこの写真は,「六本足の奇形の子牛(ボデネ村1995年5月)」……核実験はいつ頃あったかな。一番多かったのは,1950年代,60年代だと思います。さっきも言ったけど,これはまた別の水頭症の子供だね。──「『この子の写真を撮って世界中に核実験の被害を知らせてください』と,医師が水頭症の赤ちゃんが寝かされている部屋に案内してくれた。(セミパラチンスク第四小児病院1999年2月)」

他にもいろいろ写真がありますが,……「核実験場の周辺で生まれた障害児や家庭の事情で育てられていない親から預けられた子どもたち。(セミパラチンスク子どもの家1998年5月)」

というわけで,これらの写真を撮ったのが,森住卓さん。1951年生まれの人だそうです。その森住さんの本の後ろのほうを,ちょっと抜粋したので見てください。(資料が配られる)後ろのほうに「セミパラチンスク──草原の民……」を載せておきました。いいかい?そうそう奥付をご覧ください。本を手に入れようと思ったときに,参考になるんだよ。さて,抜粋には「写真家と科学者」というサブタイトルがついていますね。そこのところだけちょっと読んでみよう。

放射能の被害を伝えるため,私はセミパラチンスクで撮った写真を新聞社や出版社に持ち込んだ。しかし持ち込みはしばしば不成功に終わった。因果関係がはっきりしない写真は乗せられない,というのだ。……

因果関係がはっきりしない写真というのはどういう意味でしょうか。今皆さんが見た写真の中で,色々病気にかかってくる子ども達や大人がいたわけですが,その病気が核実験のせいであるのかどうかわからないということだね。その因果関係がはっきりしない写真は載せられないというのですね。なぜかと言うと……森住さんは核実験をたくさんやった結果,ここに住んでる人がこんな目に遭ってる,そういうふうに考えたんだね。だから,写真を撮ったんだね。で,そういう「主張」を森住さんが持ってるわけですが,新聞社や出版社には,因果関係がはっきりしない写真は載せられない,と断られたわけですね。

特に,高級な(?)雑誌がそうだった。……

これはなかなか面白い。「高級でない雑誌」というものがあるんだよね。そういうのだったら,喜んで載せてくれる。

状況証拠はこんなに揃っている。にもかかわらず個々の因果関係が証明されないからという。断られるたびに,現場を見てきた人間にしかわからないのかと,悔しい思いを何度か味わった。その悔しい思いが,もっと詳しく,もっと突っ込んで取材しようという原動力にもなっているのだが……。

彼が,そういうふうに書いています。サブタイトルは,「写真家と科学者」。しかしいくら読んでも,科学者が出てこないよね。これはどういうことなのか。これも考えないといけないね。よくよく考えてみると,因果関係がはっきりしない,と言って,森住さんの写真を載せるということを断った新聞社,出版社の人たちは科学者ではないよね。でも,因果関係というようなことを言うのは,科学者なんでしょうね,おそらく。さあ,この話は一応そこで終わり。

中尾ハジメ氏の森住氏の写真集に関する授業はここで中断する。

なぜ、ここで先生が授業を中断したのだろうか。個人的な考えを学生に押し付けることをこばんだのか。それとも、学生にこの先を考えさせることを優先させたのか。先生の授業は、この「この話は一応そこで終わり。」
というのは、けっこう定型の言葉である。先生としてはこの先は学生に考えてもらいたいのであろうけど、この考えるヒントは先生が授業でほのめかしている。

僕はこの授業記録読んで思ったことは、森住氏は因果関係のはっきりしないことに興味があることだ。森住氏は写真集の中で「状況証拠はこんなに揃っている。にもかかわらず個々の因果関係が証明されないからという。断られるたびに,現場を見てきた人間にしかわからないのかと,悔しい思いを何度か味わった。」と書いている。

ここでも基本的な疑問がわいてくる。「状況証拠はこんなに揃っている」と書きながら、どうして「個々の因果関係が証明されない」のであろうか。この書き方では次のような解釈ができる。全体としての因果関係(水爆実験がこのような悲劇を生んだ)は言えるが、個々の事例についてはその因果関係は証明されていないということだろう。

それでは、問題は全体としての因果関係が証明されているのかということである。個々の事例で証明することはかなり難しい。しかし、統計的な手法などで、科学的な判断はできると思う。放射能汚染地帯でなくとも、子どもへの異常は起きるものである。「平常レベルと有意差があるのかないのか」そのような根拠は示されているのだろうか。

「断られるたびに,現場を見てきた人間にしかわからないのかと,悔しい思いを何度か味わった。」というのは森住氏の体験的な言葉である。逆に言えば、そこに行かなければ語れないことにもなる。では、写真集を見た人々はどのような感想を言うのであろうか。直接体験はしていないが、その写真集を見れば、基本的に森住氏の「主張」によって語られたものである。そこでは、そこに行かない者(写真集を見た人)が、自然と水爆と子どもらの因果関係を結んだことを疑似体験することになる。

中尾氏は授業の最後に、再度、森住氏のことをとりあげる。(かなり学生思いの先生ですね)

で,さっきのセミパラチンスクの写真を撮っていた森住さんが,「写真家と科学者」という,そういうタイトルをつけていましたね。で,因果関係が明らかでなかったら──荒っぽい言葉で「事実」といいますが──「事実」だというふうに認定されない。荒っぽい言葉だよ。少なくとも「科学的事実」ではないということになって,価値がなくなっちゃう。こういうことが原子力をめぐっては山ほど出てきます。

つまり科学で判断できないことは、事実として認定できないということである。この考え方では、昨日の僕の森住氏への批判は、的確でないかもしれないし、科学(万能)主義の陥る部分とも言える。

森住氏の「写真家と科学者」という写真集のサブタイトルは、別の言い方をすれば「体験者と理論家」といえるかもしれない。では、現実の事実がどうあるのかを調べるためには、僕らはどのような方法と尺度を持てばいいのだろうか。科学は現実を前にして、遅々と進まぬ裁判のように立ちはだかって事実を留保させている。核にまつわる問題にはそのようなものが特に多い。
「僕らは体験したことを同時に論理的に説明ができない」
「僕らは体験と論理の時間差にいつも悩まされる」
そのように考えてしまった。