−死と生の等価−死刑文化からの抜け道を求めて 現代思想3月号

そもそも人はどうして宗教を必要とするんだろうと考えました。僕なりの仮説ですが、人は自分が死ぬことを知ってしまったからだと思うんです。いずれ自分という存在は跡形もなく消滅するという現実に、本来なら人は耐えられない。その恐怖を中和する機能に、宗教の最大のレソンデートルがあるのではないでしょうか。この地球上で人類が生まれてから、信仰を持たない民族や文化など存在しませんでした。輪廻転生や極楽浄土などの死後の世界が宗教によって担保されることで、人はいまのこの生を安らかに過こすことができる。でもこれは同時に危険なことです。死と生を等価にして、時には生よりも死の方にむしろ価値があると反転する機能ですから。だから宗教は血なまぐささとは絶対に無縁ではいられない。仏教やキリスト教が殺生を強く否定するのは、自らの危険性に対するストッパー的な役割なんです。もちろんオウムも例外ではないし、最近ではジハードもそうですね。これは宗教すべてが潜在的に持っているリスクです。でもこれを取り払ってしまったら宗教ではなくなってしまう。ところが仏教は、実は例外的な宗教であるという説がある。釈迦は死後の世界を一言も口にしなかったといいます。輪廻転生とか極楽浄土は釈迦の死後、仏教が世俗化する過程で派生してきた。死後の世界を担保することは最大の現世利益ですから、布教には不可欠なんです。更に言えば、国民の大多数が顕在化した宗教をもたない日本という国の特殊性にも着眼しなくてはならない。今のイラク戦争も含めて、今後の世界が考えるべき重要な課題です。

「死と生を等価にして、時には生よりも死の方にむしろ価値があると反転する機能ですから。だから宗教は血なまぐささとは絶対に無縁ではいられない」のような言い方は危険であるが、惹かれるのはどうしてだろうか。死への恐怖は時として、死後の世界が安楽であるような、または、生前の善が死後に反映されるかのような錯覚と幻想によって、生きる苦をまぬがれようとする感情があるのかもしれない。
ここであげられたジハードもそれであるだろう。死をもって行う行為が、それによって生きる苦しみをやわらげ、最高の善に導くような行為にすりかえられる。もっといえば、日本の特別攻撃隊が、家族、国民、天皇のために死にえたことも、死をもって行う行為が崇高であり、それによってかけがえのない善が与えられるものという発想が基底にあったのかもしれない。
オウムの地下鉄サリン事件は、行為がすでに現実と離反し、それでも空虚な論理と教義がそれを肯定化し、非現実が現実化した。平常を生きる人々が突如として、非現実の世界にひきこまれた。それは不条理だが現実である。現実が不条理でなく、不条理が現実である。