教育基本法

 現代思想の04年3月号の特集「教育の危機」を手に取る。
「国民」教育と犠牲のポリティクス   高橋哲哉

愛国心」について言えば、愛国心を持ちたいとか、目分は愛国者でありたいという「内心の自由」を否定するわけにはいかないでしよう。それが他者への押しつけになったり、ましてや国家がそれを組織的に注入する形になることは否定されるべきですが、「思想・良心の自由」としては、愛国心を持っても待たなくても自由だということにならざるをえない。つまり、国家が法によって国民が愛すべきものを定めるという、そのことに根本的な間題がある。私たちが何を愛するかは一人一人の自由だ。国を愛する人がいてもいいし、愛さない人がいてもいい。
 ところが、教育基本法の第一条を読むと、そこに「真理と正義を愛し」というのが出てきます。これは、すでに「愛の法制化」になってしまっているのではないか、そう問うこともできるはずです。

 高橋にしては、思い切ったことを書いているので、はっとする。愛国心に反対するのであれば、「愛の法制化」という観点では、「真理と正義を愛し」もおかしいということである。
 さらに、踏み込んで、高橋は続けている。

国を愛するべきだと法で定められたときと、真埋と正義を愛するベきだと法で定められたときと、もちろん同じではないけれども、しかし共通性もある。「真理を愛し」というのは、神話的な皇国史観、嘘で固めた大本営発表といつた戦前・戦中の間題を考えてみれば、それが入つた理由は分かる。侵略戦争、植民地支配、これらは巨大な不正だったわけだから、「正義を愛し」と入れたのは良かったというのも分かる。しかしそれにしても、これらは国民が何を愛すべさかを定めている。「真理への愛」と「正義への愛」の法制化に間題はないのだろうか。あるいは、教育基本法日本国憲法と一体である。これは、それらを護ろうとする人も変えようとする人も共通の前提としている。教育基本法の前文にそう書いてあるから当然そうなのですが、しかしそうだとすれば、日本国憲法象徴天皇制教育基本法にも及んでいると考えられるのではないか。日本国憲法教育基本法体制が、全体として象徴天皇制を含んでいるとすれば、その限りでこのシステムそのものを根本的に変えなければならないという議論もありうるでしょう。こんなふうに考えていくと、教育墓本法を埋想的な法律だとか完璧な法律だとか考えることはとてもできないわけです。

象徴天皇制教育基本法をからめる議論が、少なかったが、ここでは、あえて、「愛の法制化」という問題から、ここに言及している。教育基本法憲法は深い関係があり、それは憲法改正教育基本法の改正は連動していく。
ただ、どちらの改正についても、象徴天皇制の問題は、疎んぜられている感がある。まさにこのような改正の論議がさかんな時に、「雅子妃騒動」が起こっていることも、まったく、改正問題と関係がないわけではないように感じられる。これについては宮台真司が述べている。

「開かれた皇室」論者は自分が何を言っているのか分かっているのか
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=130

教育基本法の改正の目的を大内裕和が的確に述べている。
「教育は誰のものなのか」大内裕和

教育墓本法「改正」は、現行の教青基本法が個人の尊厳や個人の価値を基盤としているのに対して、教育を国家戦略のための人材育成を行なうためのものへと転換する方向を明確に示している。グローバル化時代のさらなる経済競争とそれを支える派兵国家のためにふさわしい「国民」の育成が、教育基本法「改正」の目的である。

教育が誰の手の内にあるのか。個人の尊厳から出発するのか、国や新たな公共から出発するのか。今の国益優先から考えると、個人から出発するのでは、国にとって都合が悪いということだろう。

「期待される人間像の<裂け目>」児美川孝一郎

こうした新国家主義新自由主義の相補的関係とパラレルなものとして、それぞれがめざす〈愛国的な子ども〉〈創造的なエリート〉という人問像もまた、相互に補完的な役割を果たすものと、とりあえずは考えることができるかもしれない。それは、国際舞台で活躍する〈創造的なエリート〉といえども、「日本人としてのアイデンティティ」という核を欠けば、「国益」の観点からは困つた事態ともなりうるし、「シンボリツク・アナリスト」[ライシュ、1991、244頁]「多国籍企業型上層精神労働者」[後藤、2002、74頁]の育成を最優先課題とする新自由主義的な学校制度は、必然的に工リート養成のコースからこぼれ落ちる子どもたちを大量に輩出するが、そのことが、社会秩序そのものをも脅かすような意識や行動の広がりにつながつてしまう事熊は避けなくてはならないからである。もちろん、そうしたノン・エリートの子どもたちに対しては、容赦のない「自己責任」の論理が投げつけられるが、それでもおさまらない部分に対しては、ナシヨナリズムや愛国心の強調によつて、末然に<危検>を防止しておく必要があるというわけである。

新自由主義的な学校制度を維持するためには、多数の落ちこぼれが生産される。落ちこぼれることは、その人の「自己責任」ということだから、努力不足ということになる。
しかし、落ちこぼれ対策が必要になる。国にとっては、「落ちこぼれども」が一斉蜂起して、国に反乱しては困るし、そこまではなくとも、国の政策に反対する市民活動家にとりこまれても困るし、反社会的・非社会的国民であっても困るということだろう。(彼らを管理統制する国家的費用もばかにならない)
そのような中で、「日本の伝統・文化」としてのアイデンティティが登場するのだろうが、今の国民にとって「対米従属型」のナショナリズムであったり、アメリカ的消費文化維持としての保守主義の方が受けがいいようだ。宮台流に言えば「米国ケツナメ」外交であろう。
「ケツナメても、気持ち良ければいい」的な保守なのかもしれない。