僕はどうして教育基本法の「改正」に反対するのか

1. 教育基本法の思想の背景
2. 教育基本法の制定と成立
3. 教育基本法の制定の意義
4. 新憲法になぜ教育の理念が入れられなかったのか
5. 子ども観の変遷
6. 教育基本法を変えようとする側の子ども観
7. 教育基本法を変えようとした歴史とそれがめざすもの
8. 最後に

 1. 教育基本法の思想の背景

 教育基本法が施行されたのは1947(S.22)年3月31日である。この法律は、敗戦のごたごたの中で突然あらわれてきたように思われるが、その根本思想は人類の営々とした思想・哲学・科学の裏付けによってなされたものである。つまり、進駐軍によって押し付けられた遺物のようなものではない。それを、最初に考えてみたい。そのためには、教育基本法の前文と第1条(教育の目的)をどのように解読するかが重要である。
 まず、教育基本法の前文である。

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

第1条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 この前文および第1条を読み解くために、その思想の背景についてさぐってみる。

(1)世界人権宣言
 世界人権宣言は1948年に発せられたものであるが、教育基本法の施行より1年遅れている。その26条の2項には次のような条文がある。

第26条(教育)
2. 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。

 ここで述べられている「人格の完全な発展」と教育基本法の「人格の完成」は一致する考えである。さらに宣言の「教育は、・・・、平和の維持のため・・・」と基本法の「平和的な国家及び社会の形成者として、・・・」についても、読み取れる思想は共通のものである。

 ここで重要なものは、教育基本法の制定が世界人権宣言よりも早く行われたということである。モノマネ的に制定したのではなく、そこには第二次世界大戦という人類史上まれに見る悲惨な歴史と、それまでに積み上げられた啓蒙思想を源にする人権思想に裏打ちされたものだと考える。

(2)啓蒙思想
 啓蒙思想の考えが、イギリスでの名誉革命、フランスでのフランス革命と過去の封建的な考えや絶対王制を破壊してきた。しかし、同時にそれは啓蒙君主制などという上からの啓蒙的な改革で絶対主義を残そうとするシステムもあらわれた。
 啓蒙思想のもたらす合理主義と批判主義は、多くの国民の参加による国の運営という正当性を高めて民主主義の基盤を形成したのは事実であろう。同時に、啓蒙思想家ではないが、ダーウィンの「種の起源」に著された進化論は、教会の「創造主による種の起源」を真っ向から否定するものになったのである。
 18世紀から19世紀の半ばまでのこの時代は、「人の平等論」を基本にしながら、人が学ぶ権利の萌芽とそれによって得られた英知によって、不合理なものに対してモノが言える時代への黎明期になったのであろう。
 その対象は絶対的な王政であり、絶対君主であり、教会だったように思う。しかし、この啓蒙思想は新たな国民の政治参加という民主主義の成立に寄与したのであるが、同時に、ファシズムという強烈な国家主義の体験を余儀なくしたように思う。
 つまり、啓蒙思想後の列強の植民地支配・ファシズム・世界大戦という洗礼を受けてこの世界人権宣言は生まれたというこになる。これには、飛躍的な資本主義の発展と共産主義の誕生という側面も見逃せない。しかし、第二次世界大戦後も東西の冷戦構造、冷戦構造崩壊後の民族主義アメリカを中心とするユニラテラリズムの台頭など、世界の構造が激変をしている。
 だからこそ、再度、世界人権宣言に至る思想の読み込みと、それと共有する概念のもとに制定された教育基本法を考えると同時に、教育基本法がめざしたものが時代を越える普遍性があるのだという認識が必要だと思う。


 2. 教育基本法の制定と成立

 教育基本法の制定にあたっての略年表(中教審基本部会)を示すが、この年表を見ると不可解な点がある。米国教育使節団が日本に来て、S21年3月31日に報告書を出すのだが、その時点では、報告書に、教育基本法のごとき法律を定めるというような内容ではない旨が書いてある。
 ところがS21年6月27日の田中耕太郎文部大臣は、帝国議会において「教育根本法のごときものの制定を考慮している」旨を答弁をしている。この3ヶ月の間に「教育基本法のごとき法律」の必要性が出てきていることになる。
 これが謎である。どこから、「教育基本法のごとき法律」の必要性が出てきたかということである。そのなぞを解くための本を発見した。

 辻田力・田中二郎監修/教育法令研究会著「教育基本法の解説」国立書院
 辻田力氏は文部省調査局長で田中二郎氏は東京大学教授である。共に教育基本法の最初の時点からかかわった方々である。
 この田中二郎氏のこの本の序に次のような文章がある。

 「・・・教育の改革が当面の緊急な課題でなければならない。教育制度の改革、教育内容の改革、教育方法の改革、これらこそが民主的で平和的な日本を建設するための絶対の条件であるということができよう。しかし、これらの改革に当たって、まず第一に必要なのが教育の根本理念を確立し教育の根本方針を明示することである。過去の誤った教育理念と方針とを一掃して、新しい正しい理念と方針とをもって、これに代えることが、敗戦後、その目標を見失って虚脱放心の状態にある教育活動をよみがえらせ生気をとりもどすための第一の道であると思う。・・・」

 ここに書かれているように、「第一に必要なのが教育の根本理念を確立し教育の根本方針を明示することである」とある。つまり、教育勅語を中心とする勅諭による日本の教育の方針を一掃し、新たな【教育の根本理念の確立】をめざしたものである。

 これは、戦争前から戦争中にかけても体制に抗する教育の研究がなされていた証である。中国への侵略の15年戦争から、強められてきた教育の管理統制のもとでも、教育の真理を求めるための研究は進められてきたわけである。もっと言えば、そのような管理統制下であるほど教育の自由を求める声は、【声無き声】であったけれども、けして消えることなく灯っていたということである。
 お仕着せの日本教育家の委員会が出しえなかった教育基本法の制定を、3ヶ月間に見事に、文部大臣をして「教育根本法のごときものの制定を考慮している」と言わしめたのである。教育基本法というものはそのような発祥をもつ類の法律ということである。


中教審 基本部会資料より)

 教育基本法制定の経緯
昭和20年9月15日、文部省は、戦後の新しい教育の根本方針として「新日本建設ノ教育ノ方針」を発表。

昭和20年10月22日、連合国軍最高司令部は「日本教育制度に対する管理政策」を指令、教育の基本方針、教職員の粛正、教育の具体的方法について指示。

昭和21年3月5日、教育全般にわたって積極的な提案を行うために、米国教育使節団(第一団)が来日。日本教育家の委員会(総司令部令により設置)と協力して、同年3月31日、報告書を提出。
 この報告書は日本教育の目的と内容をはじめ実施すべき多くの事項を提案しており、教育組織の根本的変更を必要とする内容のものであった。教育勅語については、儀式等におけるその取扱が問題とされたが、教育基本法のごとき法律を定めようとするような内容は含まれていなかった。
昭和21年6月27日、第90回帝国議会において帝国憲法改正案が審議された際、田中耕太郎文部大臣は、「教育根本法のごときものの制定を考慮している」旨を答弁。

昭和21年8月10日、教育に関する重要事項を調査審議するために、内閣総理大臣の所轄下に教育刷新委員会を設置。同年12月27日、同委員会は、教育基本法制定の必要性と、その内容となるべき基本的な教育理念等について建議。

昭和22年3月4日、教育基本法閣議決定
昭和22年3月5日、政府は教育基本法案を枢密院に諮詢、その際、政府側にて若干の字句訂正を行い、同年3月12日の枢密院本会議において原案どおり可決。

昭和22年3月12日、政府は、教育基本法案を第92回帝国議会に提出、原案どおり可決成立し、同年3月31日、公布。
 ・3月13日 衆議院上程
 ・3月17日 政府原案通り衆議院通過
 ・3月19日 貴族院上程
 ・3月25日 政府原案通り可決成立
 ※日本国憲法 昭和21年11月3日公布 昭和22年5月3日施行

 3. 教育基本法の制定の意義

 「教育基本法の解説」国立書院の辻田力氏の序文に次のような一節がある。
「従来教育に関する法令は教育財政関係のものを除いてはおおむね勅令の形式で公布されたのであったが、この度の教育基本法は議会の協賛を経て法律として公布されたものであって、この意味において教育法制史上画期的な意義をもつものである」

 ここに書かれたことは、議会制民主主義を謳いながらも、その実、勅令の形で教育については国家統制がなされ、その結末があのような悲惨な戦禍を招いたということである。教育勅語という、勅令が国民のあるべき姿を示し、それが教育の目的となったということである。

 その強烈な反省の上で、先人達は弾圧にひるまず、国家が教育にかかわる時のあるべき姿、教育のめざすべき道筋を示したのであろう。しかし、同時に自戒をこめて次のような一文もある。田中二郎氏の序文に次の一節がある。
「ところで、教育の根本理念や方針は、上から与えられるべきではない、という考え方がある。教育者自らの思索によって求められるべきものであるともいう。たしかに、権威者の命令として上から与えられたり押し付けられたりすべきものではない。また。各人の思索するところに尊さがあることも疑いの余地はない。しかし、過去の誤った教育理念を打破し、教育方針を除去するとともに、進んで新しい教育理念を確立し教育方針を明示することは、教育者が混とんたる虚脱感にある今日。決して無用とは称しえない」
 ここでいう虚脱感というのは、理解がかなり困難な部分がある。というのも、戦前・戦中の教育の全否定のもとで、新生日本をつくるという使命が教育者に与えられたことである。自分が教えていたことに、一抹の不安は持ちながらも教授してきたことを全否定することは、全くの自己否定に等しい行為である。

 そこから派生する事象は、生き方の問題としての虚脱感である。または、混とんとした精神の錯乱であったろう。国家のために死す事を誉とした教えてきた者にとってはイバラの道であったろう。その精神のよりどころであり、【如何に死すべきではなく、如何に生きるべきか】を示したものが教育基本法であったと思う。

 その成立の過程には、教育者の苦難と自己追及があったのだろう。しかし、この苦行の産物が教育基本法であり、それによって、多くの国民が新しい教育のあり方を諒解したのである。これをもとにして教授できるという教育者への新たな指針が示されたのである。ここに、教育基本法の制定当時の意義があったように考える。


 4. 新憲法になぜ教育の理念が入れられなかったのか

 教育基本法が生まれようとした時期、1946年(S.21年)の3月の頃を振り返ると、同年3月6日には「憲法改正草案要綱」が発表されている。まさに、新生日本の基本となる憲法の要綱が審議されよとしていた時代であった。

 そこで、教育の基本理念を憲法に入れるかどうかで議論がなされている。それは、新憲法における指導原理は、憲法全体の精神から導き出され、その規定は憲法全体の具体的表現のとして理解されるべきである。そこで、憲法全体の精神からくみとれられるべき教育の指導原理を新憲法に明示すべきであるという意見が帝国憲法改正委員会で委員が述べている。(杉本勝次委員)

「・・・民主主義的な平和国家の建設ということについて教育が、根本の動力でなければならぬといおうことを私どもは信ずるからである。教育がそのときどきの政治の動向によって影響を受けることを拒否して、これを国家の政治的権能から独立させる必要があるという趣旨からである。・・・」

 さらに、他の憲法改正委員会の委員からも、教育の自由性、教育の機会均等、教育の義務制度の事項を憲法に含ませたいという要望がでている。

 しかし、時の文部大臣である田中文相は次のように述べている。

「教育に関し一章を設けることは、憲法全体のふりあいからみて不適切であること。また、憲法というものは元来政治的の法律であり、教育が問題される場合でも、やはり、政治の面から問題にされることであり、この憲法の性質上道徳及び教育の原理というものは憲法の中に入れるべきではない」

 この当時、教育の理念ないしは方針を憲法に入れるべきであるという要望がかなり強かったということである。つまり、教育の理念・方針は憲法に入れるべき重大な事項であり、それは、憲法の平和国家の建設という理念を裏打ちすると考える委員が多かったということである。
 同時に、これを憲法に入れるべきではないという考えも、理解できる。教育というものは特に、法律的な規定になじまないものである。そのことから、憲法の精神を理解し、それを実践するような国民を形成するという意味において、その意味においてのみ、憲法という枠からはずして、法として単独に制定しようとしたものが教育基本法ということである。

 憲法に入れるべきか、独立させるかは議論の別れるところであろうが、どちらにしても、教育の理念がいかに憲法と密接に関連し、憲法の精神の実践者としての国民の育成、つまり、その意味での個人の人格の完成を願ったものである。


 5. 子ども観の変遷

 近代的な子ども観の最初の宣言は「児童の権利に関するジュネーブ宣言」(1924.9.26国際連盟総会)ではないだろうか。これは、子どもが保護されるべきものであることを明確に宣言している。この宣言の裏側には、資本主義の発達における子どもへの苦役(過酷な労働)の押し付け、戦争での若年兵士としての徴兵など、国家が無差別的に子どもの人権を踏みにじった歴史への戒めと今後の人類史への警鐘であったのだろう。
 特に、教育に関するものとしては第5項がある。

5 児童は、その才能が人類同胞への奉仕のために捧げられるべきである、という自覚のもとで育成されなければならない。

 日本では、教育基本法が1947年に制定されたが、その後1951年5月5日(こどもの日)に児童憲章が採択されている。その中で教育に関するものに多くが割かれている。

 さらに「児童の権利に関する宣言 」( 1959年11月20日国連第14回総会)が採択されている。その中で、特に教育に関する部分は第7条の1項にある。

第7条
1 児童は、教育を受ける権利を有する。その教育は、少なくとも初等の段階に
おいては、無償、かつ、義務的でなければならない。児童は、その一般的な教養
を高め、機会均等の原則に基づいて、その能力、判断力並びに道徳的及び社会的
責任感を発達させ、社会の有用な一員となりうるような教育を与えられなければ
ならない。

 また、児童の権利に関する条約子どもの権利条約)(1989年)が発せられた。これにより、宣言という形でなく条約として、初めて子どもの人権および権利が明確にされたことになる。

 ここで注目すべきは、日本は「児童憲章」(1951年)をいち早く採択し、その後8年遅れで国連において「児童の権利に関する宣言 」(1959年)が採択されている。つまり、日本は1951年当時、世界でも子どもの人権や教育については先行的な役割を果たしていたと考えられる。

 しかし、「子どもの権利条約」が締結される1989年になると、それが、一変している。この条約を批准するために5年を要している。それは、確かに学校における男女別の教科や内容があったので、それを整備する必要性があったのは事実であるが、もっと、根本における子ども観の変化があったように思う。それは、個人の変化というより、国家戦略としての子ども観の変更ではないかと思う。この部分を次にみることにする。


 6. 教育基本法を変えようとする側の子ども観

 教育基本法憲法と深く関連していること、その基本法の中心に据えられた精神は、すでに子どもの権利を十分に考慮し、それを普遍化したものであることは前述した。それでは、その基本法を変えようとする側は、どのような考えを教育基本法に盛り込もうとしているのかをみていく。

 その回答の一つとして、「世界」2002年12月号の西原博史氏の論文がある。

教育に法が関わる時、そこには「あり得べからざる教育」を排除するという目的がある。・・・・教育基本法が、上位の法律として確定しておかなければならないと考えた「あり得べからざる教育」とは何か。これは、大日本帝国憲法下において実現されていた、教育を国体護持と天皇のための有意な人材育成と考える、道具的な人間観に基づく教育体制の根絶であり、それを可能にしていた学校教育の中央集権的な統制の排除であった。

 ここで、注目すべきは「道具的な人間観」という考えである。
 「改正」側の主張の一つは、教育の目的を「人格の完成」から「人材の育成」に変えようとするものである。

 「人格の完成」とは、まさに、教育をして自らを個人として完成させることである。「教育基本法の解説」には、次のような貴重な一節がある。

「教育の根本理念と方針第一条によれば、教育は、何よりもまず人格の完成をめざして行わなければならない。ここに「国家有用の人物を錬成」することを目的とした在来のかたよった国家主義的教育から解放され、発展してやまない人間の諸特性諸能力の統一調和の姿である人格の完成をめざして教育が行わなければならないことが明示されている」

 この教育の原理に基づく発想こそが、「人格の完成」という文言である。さらに、第1条の教育の目的には、「平和的な国家及び社会の形成者」という言葉が続く。これは、国民が国家の一構成員ではなく、積極的に社会を形づくる形成者を創造することが教育の目的であると宣言している。

 そこで、「道具的人間観」ここでは「道具的子ども観」と言ってもいいだろうが、その発想は、またもや日本人が捨てたはずの「旧来の子ども観」に立ち戻ってしまった。国家のための人間育成である。まさに国家有用の「人材の育成」にほかならないのである。

 この「道具的子ども観」にとっての最大の障壁が教育基本法である。ここに示された人間観は、これを「改正」しようとする側にとって、目障りでしょうがないのである。西原氏の言葉を借りれば、「あり得べからざる教育」を実現する上でこの法律が障害なのである。
 だから躍起になって「改正」したいのである。


 7. 教育基本法を変えようとした歴史とそれがめざすもの

 教育基本法を変えようとする動きは今回だけでしょうか。実は、今までも何度も変えようという動きはあったのです。

−−−−−教育基本法を変えようとする年表−−−−−
 1956年 鳩山一郎内閣 「臨時教育制度審議会設置法案」→国会に提出
      清瀬一郎文部大臣
      日本人としてみるとき、これでは一体わが日本国に対する忠誠というのはどこに入っておるのだ。これが問題である。
 1961年 荒木萬壽文部大臣
      もっと、日本人みずからのものだいという風なぴったりしたものに欠けているのではないか。
      (教育基本法は占領軍の押し付け論)
 1974年 田中角栄首相
      教育勅語礼賛
 1984年 中曽根康弘首相
      「戦後政治の総決算」
      しかし、教育基本法についての見直しは先送りされる。
 2000年 中曽根康弘元首相
      今の教育基本法というものは、ブラジルにもメキシコにも反応しえる蒸留水のごときものである。日本の水の味がしなければ日本の教育基本法とはいえない。
 2000年3月 小渕首相の私的な諮問機関「教育改革国民会議」の設置
  第1回 小渕首相  教育基本法の見直しまでは言及していない
  第2回 森 首相  ・・・教育基本法の見直しをふくめ・・・ 
  第4回 森 首相  ・・・私としては教育基本法を見直す必要がある
 2000年12月 最終答申
教育基本法を考える3つの観点
  (1)新しい時代を生きる日本人の育成
  (2)伝統、文化など次代に継承すべきものを尊重し、発展させていくこと
  (3)これからの時代にふさわしい教育を実現するために、教育基本法の内容に理念的事項だけでなく、具体的方策を規定すること

 2001年 1 月「21世紀新生プラン」
 2001年11月26日 中央教育審議会諮問
   新しい時代にふさわしい教育基本法のありかたについて
 2002年12月 答申出される予定

 このように、2000年3月の「教育改革国民会議」の設置以後、急速に教育基本法の「改正」に向けての論議が」すすめられていることに注意しなければならない。
 さらに、この教育基本法を変えようとする動きは、憲法の「改正」の動きとも関連している。・「国旗・国歌法」の制定 ・新ガイドライン関連法制定(周辺事態法もふくむ)・住民基本台帳法改正(国民総背番号制)・国会に憲法調査会を設置・テロ対策特別措置法制定・自衛隊法改正・有事3法案 政府提出・住民基本台帳ネットワーク 稼業など、外堀を埋めるかのように1999年以来政府は日本を戦争が出来る国に変えようとしている。まさに、憲法の精神は理念化した骨組みだけの構造になってしまった。

 それを露骨に顕したのが、森首相の一連の発言である。

「我が国の文化や伝統を尊重する気持ちを養う必要がある」
天皇制を教えよう」とあいさつ
「若者に国民奉仕隊のような組織に入ってもらい、国家のために尽くすということを政策的に考えておかなければならない」
教育勅語には、時代を越えた普遍的な哲学がある。こうしたことをもう一度、子どもが教わることができる改革をやってほしい」

 それらのことをもっと整理した提言がある。

「新しい教育基本法を求める会」からの6つの提言
 1.伝統の尊重と愛国心の育成
 2.家庭教育の重視
 3.宗教的情操の涵養と道徳教育の強化
 4.国家と地域社会への奉仕
 5.文明の危機に対処するための国際協力
 6.教育における行政責任の明確化

 言い方はソフトであるが、簡単に言えば、戦前のような教育体制に後戻りしなさいということである。1から6の提言が目指すものは、一度捨てたはずの教育の目的を焼け石の中から拾い出すものである。今、それが行われようとしている。


 8. 最後に

 今までに見てきたように、教育基本法は戦前の教育の反省と歴史の趨勢の中で生まれてきたものである。教育基本法の精神をいかそうとしても、戦後の政府の方針は教育基本法をいかす方向から逆の方向へ向かうように変えてきている。

 今まさに、教育基本法を変えようとする流れは最大の山場を迎えている。僕は単に教育基本法を変えないことでいいとは思っていない。しかし、今、これを変えてしまえば、教育基本法の理念も方針も二度とは戻らないであろう。それを戻すためには、再度、多くの人々の血を流さなければならない。それを回避するのが僕らの英知であると思うのだが、またもや、日本は過ちへの一歩を踏み出そうとしているように思う。

 教育において、法律はなじまない。それは人と人の出会いであるから。なぜに、そこに教育基本法なる法律を持ち込むのか。それは「あり得べからざる教育」を排除するためであるということを僕たちは強く自戒しなければならないと思う。