テロにも戦争にも反対

「テロにも戦争にも反対」というスローガンに、当初から違和感を覚えていたが、最近、このスローガンは「左翼の屈折したニヒリズム」というものだと自覚してきた。
現代思想」6月号の上野千鶴子の「女性革命兵士という問題系」を読んでみて、さらに、その自覚は高まってきた。

富山の間題提起に同調して、酒井は「テロにも戦争にも反対」というスローガンが、「権力の側からの暴力的ともいえる状況定義と、それが露骨に隠蔽する現実の複雑さの隔たりの途方もなさがこのスローガンにあらわれている」と言う。アルジェリア解放聞争に関わったフランツ・ファノンの「暴力論」を訳した太田も、ファノンを引用して「植民地ブルジョワジーはまさしく植民地的状況が作り出したともいうべき、新しい概念を持ち込んでくる。すなわち非暴力」と指摘する。彼らのあいだでは、「非暴力」はそれ自体、支配権力への屈従であるとする含意が分け持たれているように思える。それと明示的には示されないが、「敵」が圧倒的な支配的暴力であるとき、それに対して対抗暴力を行使して何がわるいのか、という問いがここには潜在している。このなかには、9・11 のテロリストに対する口には出さない共感がみえかくれする。事実、9・11報道を耳にしたとき、「やった!」と快裁を叫んだ日本の知識人も、いないわけではないのだ。

9・11を契機とした米国のアフガン侵攻に対して、「テロにも戦争にも反対」というスローガンをたて、テロもダメだが、戦争もダメだと呼びかけた。このスローガンの問題点は、テロと戦争を同列化するということにその核心があるように思う。
9・11の惨状からの道義的戦争としての報復に対して、真っ向から「戦争反対」と言わずに、「テロにも」と付け加えたように感じ、それは結局、屈折した表現として受け取った。

「敵」が圧倒的な支配的暴力であるとき、それに対して対抗暴力を行使して何がわるいのか、という問いがここには潜在している。

この問題にフタをして、テロを戦争と区別のないものとする考えに導くように思えた。それは、ブッシュ大統領9・11をさして「これは戦争だ
」と表明したことに似ている。この大規模テロは戦争と同等であり、それゆえに報復戦争を行う権利と義務があるという論調である。
テロという暴力に反対であり、それは、国家の暴力としての戦争にも反対であるというには、倫理的であり、道義的かもしれないが、同時にテロ報復戦争をも否定できない虚無が潜んでいる。

2002年の遺言 向井 孝
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/saluton/topics/perforto1.htm

そしてあの9.11以降出てきたのが「テロにも戦争にも反対」というまことしやかな、一応は誰にも反対できないスローガンである。
このことで世界の様相は一変した。それまで擬似的な非暴力姿勢をとっていた諸国家は、その威迫的で圧倒的な軍事力をむき出しにし、反テロ戦争を正義とし、テロ狩りの名目でまつろわぬ全世界人民への宣戦を布告したのである。新しい21世紀は、まさにそのようなアメリカの一国支配を先頭とする反テロ戦争国家と人民との闘いの世紀として始まったといってよい。

テロ報復戦争を反対するために、「テロにも戦争にも反対」と言うことは、国家の犯罪的戦争行為を否定することもできない混とんに人々をおとしいれるのでないかと危惧する。