テロリズム

04年「現代思想」8月号の「資本・国家・宗教・ネーション」柄谷行人
柄谷がインタヴューに答えている。

柄谷
たとえば、人は誰でもテロはよくないという。しかし、国家によって独占された暴力を使えば平和的で、それに対して戦えば非含法なテロリズムということになるのはおかしい。テロはまったく許されないのか。それに対して、福田和也は『イデオロギーズ』(新潮社)で、ソレルやフランツ・ファノンを引用して、暴力に、倫埋性を回復する契機を見出せるのではないかと書いています。少なくとも、たんなる平和主義や人間主義でそれを片づけることなどできない、と。それはその通りだと僕も思うのですが、やはりテロリズムはだめだと思う。
テロリズムには「目には目を」という互酬制の論理があります。しかし、僕はもっと別の互酬制の論理があると思うのです。たとえば、イエスが教えたような、「汝右の頬を打たれなば、左の頬をさし出せ」というものです。これが非‐暴力です。非‐暴力というのは受動的なものではない。右の頬を殴られれば、殴りかえすかわりに、左の頬をさし出せと一言うわけだから。ガンジーの非暴力主義もそうでした。しかも、彼は殴られるところをマスコミをつかって全世界に宣伝した。これには勝てない

柄谷としての限界が「それはその通りだと僕も思うのですが、やはりテロリズムはだめだと思う」であるかもしれない。これは公に発言する者が、そこまでという境界線を自らに課すようなものだろうか。
さらに、柄谷は興味深い話をしている。

明治維新直後に堺事件と呼ばれる攘夷事件があった。堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、土佐藩兵が襲撃して殺傷したという事件です。新政府はフランスと事をかまえるのを恐れて、土佐藩士に切腹を命じた。そのとき、土佐藩士は抗議したり反撃したりするかわりに、フランス側の前で次々と腹を切ったのですが、フランス側はまっさおになって「もうやめてくれ」といった。(笑)だから、切腹は11名でストップしたということです。
これは相手に対して暴力をふるったわけではないから、非‐暴力といっていい。とにかく、非‐暴力によって相手を参らせる方法がひとつあります。それは全面武装解除です。たとえば、アラブ全体が協議して武装を放棄すればいい。そうすれば、先進諸国は武器が売れなくなる。

この柄谷の論理には無理があるのではないだろうか。土佐藩士は非‐暴力であったのだろうか。少なくとも、自害するするという意味では、自らに暴力を課したのではなかろうか。暴力の方向性の問題だと考える。
堺事件(wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
堺事件(森鴎外
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html
切腹の様子が克明に記されている。
さらに、柄谷は次のように付け加えている。

ーそれは先進国の軍需産業にとっても困る。
柄谷
彼らは戦争して欲しくてしょうがないんだから。また、武装しない国に軍事的に介入することは許されない。世界中のマスコミが報道しますからね。これはテロリズムより有効だと思うし、未来を感じさせるやり方だと思う。

現状の世界情勢を見ると、これは、あまりにも楽観した見方ではないだろうか。