切腹の意味の変容

堺事件の顛末を鴎外の「堺事件」を読むことで解するならば、興味深いものがある。鴎外が、どれほどのジャーナリストかは知らないが、なみなみならぬ関心をこの事件に抱いていたことが推察される。事実とフィクションという問題で、この事件と鴎外の「堺事件」を読み解くならば興味ある文章が書けるであろう。もちろん、僕にはそのような力もなければ知識もない、よって、鴎外の書いたことをもとに少しばかり、当時の雰囲気を考えてみる。

堺事件について 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

堺事件(さかいじけん)は、フランス水兵殺害の責を負って、土佐藩士がした事件。 、フランス水兵20名が開国していない堺市内見学の為上陸し迷惑不遜行為に及んだことから、新政府から治安維持を任されていた土佐藩士が出動、フランス水兵が11名死亡した。フランス公使の抗議に対して、賠償金15万円の支払いと暴行者の処刑などすべての主張を政府が飲んだ。
同年に、堺の妙国寺でフランス水兵を射殺した土佐藩士20人の処刑が行われたが、切腹の凄惨さに立ち会っていたフランス軍艦長が途中で中止を要請し9人が助命された。
は事件を題材に、同名の小説を書いた。「堺事件」(1914年)がそれである。

鴎外によれば、打ち首ではなく、切腹を所望する経緯を次のように記述している

中に八番隊の土居八之助が一人酒を控えていたが、一同鼾(いびき)をかき出したのを見て、忽(たちま)ち大声で叫んだ。
「こら。大切な日があすじゃぞ。皆どうして死なせて貰(もら)う積じゃ。打首になっても好いのか」
 誰やら一人腹立たしげに答えた。
「黙っておれ。大切な日があすじゃから寐(ね)る」
 この男はまだ詞(ことば)の切れぬうちに、又鼾をかき出した。
 土居は六番隊の杉本の肩を掴(つか)まえて揺り起した。
「こら。どいつも分からんでも、君には分かるだろう。あすはどうして死ぬる。打首になっても好いのか」
 杉本は跳(は)ね起きた。
「うん。好く気が附いた。大切な事じゃ。皆を起して遣ろう」
 二人は一同を呼び起した。どうしても起きぬものは、肩を掴まえてこづき廻した。一同目を醒(さ)まして二人の意見を聞いた。誰一人成程と承服せぬものはない。死ぬるのは構わぬ。それは兵卒になって国を立った日から覚悟している。しかし耻辱(ちじょく)を受けて死んではならぬ。そこで是非切腹させて貰おうと云うことに、衆議一決した。

つまり、打ち首ではなく、切腹を望んだのである。
また、切腹を行政府に要求する部分には次のような記述がある。

一同礼をした上で、竹内が発言した。
「我々は朝命を重んじて一命を差し上げるものでございます。しかし堺表に於いて致した事は、上官の命令を奉じて致しました。あれを犯罪とは認めませぬ。就いては死刑と云う名目(みょうもく)には承服が出来兼ねます。果して死刑に相違ないなら、死刑に処せられる罪名が承りとうございます」
 聞いているうちに、小南の額には皺(しわ)が寄って来た。小南は土居の詞の畢(おわ)るのを待って、一同を睨(にら)み付けた。
「黙れ。罪科のないものを、なんでお上で死刑に処せられるものか。隊長が非理の指揮をしてお前方は非理の挙動に及んだのじゃ」
 竹内は少しも屈しない。
「いや。それは大目付のお詞とも覚えませぬ。兵卒が隊長の命令に依って働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人一人理非を考えたら、戦争は出来ますまい」
 竹内の背後(うしろ)から一人二人膝(ひざ)を進めたものがある。
「堺での我々の挙動には、功はあって罪はないと、一同確信しております。どう云う罪に当ると云う思召か。今少し委曲(いきょく)に御示下さい」
「我々も領解(りょうかい)いたし兼ねます」
「我々も」
 一同の気色(けしき)は凄(すさま)じくなって来た。
 小南は色を和(やわら)げた。
「いや。先の詞は失言であった。一応評議した上で返事をいたすから、暫く控えておれ」
 こう云って起って、奥に這入った。

ここで、彼らは、雄弁に語っている。
「兵卒が隊長の命令に依って働らくには、理も非理もござりませぬ。隊長が撃てと号令せられたから、我々は撃ちました。命令のある度に、一人一人理非を考えたら、戦争は出来ますまい」
この言葉に、もしかして、鴎外が言いたいことは、ここではないかと感じた。この「堺事件」の初出は「新小説」1914(大正3)年2月となっている。老成した鴎外が死す8年前に、この小説によって何を訴えたかったのだろうか。
土佐藩士は、まさに、自分の行為は上官の命によるもので、それを全うしただけのことである。それをもってして、罪とナスならば、戦争は成り立たないではないかと豪語している。
これによって、罪を認めた上での打ち首ではなく、いさぎよく、自分の命は自分で決定するという(ある意味、これは自由意志の戦争犠牲者なのかもしれない)切腹を選択するのである。切腹は罪を認めてするのではなく、少なくとも、我が命の裁量権は自らの手中にあり、それを行使するのみである。
切腹は、絞首刑でも無く、電気イスでも無く、自らの意志で自らの生を断つ美意識かのようである。
たとえば、三島の自死は邪推され愚ろうされたが、それは彼の美意識であった。つまり、当時の社会情勢を見て、自衛官に自らをさらし、嘲笑されたが、彼はそれをして罪などとは毛頭無く、自死によってその声明の頂点を迎えたのであろう。

付記1

愛蔵太氏のサイトで、小泉発言が問題にされていた。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20040830

そこで、このような小泉(厚生大臣)時代の発言を見つけた。

第138回国会 厚生委員会 第1号
国務大臣小泉純一郎君) 
私は新聞報道等、報じている疑惑について、さらに信頼していた部下の発言、いろいろ考えました。そして、最終的に本人が諸般の情勢を考えてやめるという判断を下した。それは事務的な最高責任者として、自分はそういう疑惑はないと言っているのになぜやめるのかということについては無念の気持ちもあったと思います。
 しかしながら、そういう判断を下してやめるというのは、上司である私にとっては、これは男として切腹するなというような気持ちを持ちました。一般の世間感情から見れば、切腹では足りぬ、市中引き回しの上、打ち首、獄門という感情が国民の一般的な素直な気持ちだろうとは思っております。しかしながら、私はやめるということも男として大きな責任のとり方だと思っております。諸般の情勢を考え、しかも新体制をつくる、そういう判断から私は迅速な新体制をつくる方がいいと判断してあのような措置を決定いたしました。
 その辞任について、私の決定に対しまして総理は、事前も、閣議の際の了承についても閣議後も、一つも私の判断について疑念を持っているという発言は聞いておりません。私は妥当な判断だと今でも思っております。

小泉総理大臣が、厚生大臣ころの答弁であるが、岡光次官の辞任を切腹にたとえたのである。つまり、罪を認めて懲戒免職になるのでなく、自ら辞職することによって、自らの命を絶った(切腹)ということである。
ここでの切腹という表現に無理があることは、「堺事件」での彼らの見れば明らかであるが、付言すれば、少なくとも、法的な無理はあったにしろ、退職金は放棄する旨を表明すべきであったろう。
木っ端役人の姑息な行為であるならば、お笑い草でああたが、やはり、非難をあびてもいたしかたない行為であったように思う。あの岡光氏の行為をして切腹などと言うのでなく、もっと、誠実な対応が必要であったように思う。
レトリックとして「切腹では足りぬ、市中引き回しの上、打ち首、獄門」という表現は、粉飾であるが、切腹と打ち首では、その意味が全く違うのである。「切腹では足りぬ」では、その意味が崩壊しているのである。これらを並列して、ごまかしている。「堺事件」のころのフランス人と同じくらいに、現代の日本人は切腹の意味を見失っている。

JANJANでの発言者については、言うことはあまりない。