国家の暴力

ウェーバーが「職業としての政治」において

国家とはある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間の共同体である。

と述べていることを萱野稔人が「国家を思考するための理論的基礎」で引用していた。
職業としての政治
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/34/7/3420970.html

昨日から、ベスラン学校占拠事件関連の読物をネットを通して読んでみたが、どこか、空虚なワラ人形のような気持ちになってくる。
ウェーバーが述べた国家の定義は、今回の事件を考えるヒントを与えてくれた様に思った。帝政ロシアソ連邦ロシア連邦と続く歴史の中で、名前は変われども、国家によって物理的暴力行使を受けてきた、また、それに反抗してきたのはチェチェンであった。チェチェンで傀儡政権として2003年10月に大統領が選出されても、その半年後には暗殺されている。その後、急激にテロは過激になる。さらに、石油利権の渦巻く地帯である。まさに、どこかの大国と同じような構図が見えてくる。
多くの場合、国家による暴力の行使は、その根拠が正当性の検証もそこそこに用意されている。さらに、国家による暴力の行使は、国民にとっては、自らの安全を保障するものと考えられることが多い。