十九の春とヨーロン

与論島を出た民の歴史

与論島を出た民の歴史

チャンプール沖縄 
http://www.ii-okinawa.ne.jp/people/itc/Syoukai/Tyanpuru.htm
ここで、ぜひ「十九の春」を試聴してもらいたい。

十九の春
 −じゅうくのはる−
 女、私があなたにほれたのは 丁度十九の春でした
    いまさら離縁と云うならば もとの十九にしておくれ

 男、もとの十九にするならば 庭の枯木を見てごらん
    枯木に花が咲いたなら 十九にするのもやすけれど

 女、みすて心があるならば 早くお知らせ下さいね
    年も若くあるうちに 思い残すな明日の花

 男、一銭二銭の葉書さえ 千里万里と旅をする
    同じ那覇市に住みながら 逢えぬ我が身のせつなさよ

 女、主さん主さんと呼んだとて 主さんにゃ立派な方がある
    いくら主さんと呼んだとて 一生添えない片想い

 二人、奥山住まいのウグイスは 梅の小枝で昼寝して
 春が来るような夢をみて ホケキョホケキョと鳴いていた
 補作詞/本竹裕助
 唄/泉 八郎・宮里康子

ナビィの恋 オリジナル・サウンドトラック
http://www.neowing.co.jp/JWAVE/detailview.html?KEY=BVCF-31044
僕のはマックで聴けないことが残念!
沖縄の歌決定版
http://www.ryukyu-wave.com/oki_trad_m1/cd3011_30ncd9.htm
音はオリジナルではないが・・・、色んな唄がきける。
ここで僕が「十九の春」を紹介したのは、その奥に潜む与論島からの炭鉱労働者の存在を知ってもらいたいことがあった。昨年、長崎県口之津に行く機会があった。そこの資料館で与論島の人々の過酷な炭鉱労働の実態を知った。
http://www.geocities.jp/poohpoohtrust/tyuraumi3.htm

「十九の春」は非常に有名だが実は沖縄民謡がルーツではなく、日本本土から流入した「流行り唄」。オリジナルは「ラッパ節」(明治38年・1905年に流行)。このラッパ節が北九州の炭坑でブームとなる。そのころの炭坑といえば石炭好況期で、与論島から多くの出稼ぎ労働者が来ていた。(当時の与論島は1898年の台風で全戸倒壊という悲劇にみまわれていた)しかし彼らは本土労働者の賃金の半分でこきつかわれ、さらに「ヨーロン」と呼ばれて差別をうけていた。そんな彼らを慰めたのが実は「ラッパ節」だった。与論三線に乗せられて唄われた「ラッパ節」はそのスタイルを大きくかえ、「与論小唄」(与論ラッパ節)と呼ばれるようになる。後、炭坑から与論へ戻った労働者達から沖縄本島、そして八重山へと伝播していった。そして沖縄の本土復帰後、与那国出身の本竹裕助氏が補詞編曲し、ヒット。それがまた日本本土へ逆流し、田端義夫(バタヤン)がカバーして全国区的大ヒット曲となる。ちなみに映画「ナビィの恋」でも主題歌であった。

与論の人々がどうして、与論島を出て長崎県口之津に向かったかは、次のような記述があった。
明治30年前後の奄美の災害について(02年8月20日付け)
http://www.synapse.ne.jp/amamian/tentou/ammaminosaigai.htm

2:明治28年(7月)、「大暴風濤、人家流失198戸、全倒3,865戸、圧死12人」(徳之島事情)とありますが、この台風は南部三島(徳・沖・与)を襲ったようです。この台風で被害が甚大だった与論島の人々は、31年から県の指導により「長崎の口之津へ160余名、初めての県外集団出稼ぎ」(沖永良部島沿革史)を始め、33年は100名、34年には400名もが三井三池炭坑の最低辺労働者として移(棄)民させられてています。「しかし、ここも苛烈な差別と低賃金の地獄だった」(『与論島を出た民の歴史』の帯文より)そうです。

口之津の資料館には与論出身の人々の住む家の模型(ほぼ実物大だろうか)があったが、粗末な建物で、そのころには「ヨーロン」と呼ばれ、差別されていたようである。
これらのことには「与論島を出た民の歴史」が詳しい。