米軍慰安施設

反米嫌日戦線LIVE and LET DAIE
慰安婦文化】敗戦から3日後、女郎屋に70億円前払いした日本政府
http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%c2%e7%c6%fc%cb%dc%c4%eb%b9%f1%a4%cf%b7%f9%a4%a4%a4%c0/0000132799.html

敗戦から3日目の8月18日、内務省警保局長は全国の警察に無電で「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒」秘密指令を発し、占領軍専用の「慰安施設」を 特設するよう指示した。発案者は国務大臣近衛文麿。準備は最大限の慎重さで行い、 施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、売春業者や関係者を 動員すべしとされた。朝鮮半島での慰安婦強制連行には慰安婦の証言に警察官がよく出て来るが、やはり政府から見ても警察が慰安所の担当であったようだ。

という記述があり、この関連を少し調べてみた。敗戦から3日後の1945年8月18日付け「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務省警保局長通牒(無電)」が出されているが、その原文は探せなかった。関連するものとして、次のようなものがあった。

1996年11月26日 参議院決算委員会
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/138/1410/13811261410003a.html

○吉川春子君
敗戦から三日後の八月十八日、内務省警保局長は、各庁府県に対して、「外国軍駐屯地における慰安施設について」という無電通牒を発した。占領軍慰安施設として各県の警察署長は、性的慰安施設、飲食施設、娯楽場を積極的に設定整偏するようにという通牒である。その際、営業に必要な婦女子は、「芸妓、公的娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者等を優先的に之に充足すること」と指示した。
 この占領軍対策は、「一般婦女子を守る」防波堤であるといわれたが、同じ日本の女性の一部を占領軍兵士に向けて公用慰安婦として日本国政府が施策化したこと、しかも、業者の搾取の自由を保障したことにおいて、これほどの女性の人権蹂躙はあり得ないことであった。こういうふうに書いてあります。
 それから、こういう職務に当たった現場の警察官の声も紹介しておきます。これは「広島県警察百年史」に書いてあります。四百十四ページにこういう記述があります。
 連合軍の本土進駐にあたり、国民がもっとも心配したのは「婦女子が乱暴されるのではないか」ということであった。閣議においても種々論議が重ねられ、八月十八日には警保局長から全国警察部長あてに「占領軍に対する性的慰安施設の急速な設営を実施すべき旨」指令した。まことに残念なことであるが、占領軍人に対する性的慰安施設を設営するという、いわば幇間まがいの仕事を警察がせねばならなかったのである。当時の警察官の苦衷、屈辱感まことに察するに余りがある。
 警察署保管の旧娼妓名簿から前職者らの住所、氏名を調査し、彼女らの住む山村あるいは漁村に向かって面接勧誘するとか、あるいは現役の娼妓、芸妓、酌婦、密売いん者等、かつては取締対象者であった彼女らに対して、外人相手の復職を頼んで回るとかしたもので、このようにつらい思いで勧誘した要員五〇〇人を、ようやく九月末日までにはそれぞれの場所に送りこむことを得、米軍主力部隊が到着した十月七日を期して営業が開始される運びとなった。こういうことについて、一切知らない、通達もなくした。こういうことであなたは責任逃れできると思いますか。

米軍慰安施設問題での疑問に答えます
2001年6月25日 吉川春子
http://www.haruko.gr.jp/policy/heiwa/beigun-ianfu.html

「外国駐屯軍慰安施設等整備要綱」
一 営業行為は一定の区域を限定して従来の取締標準に係わらずこれを許可する
二 その区域は警察署長が設置するものとして、日本人の施設利用は禁ずる
三 警察署長は左の営業については積極的に指導を行い設備の急速充実を図るものとする
  性的慰安施設
  飲食施設
  娯楽場
四 営業に必要な婦女子は、芸妓、公私娼妓、女給、酌婦、常習密売淫犯者を優先的にこれを充足するものとする

 警察が積極的に慰安施設を設置したことは、各県警の「警察の100年史」等にリアルに記述されています。

○ 広島県警の歴史
全警察官が慰安婦募集に・・、慰安所は押すな押すなの盛況・・
 「まことに残念なことではあるが、占領軍人にたいする性的慰安施設を設営するという幇間(ほうかん)まがいの仕事を警察がせねばならなかったのである・・」

北海道警察史(二)昭和編
 「昭和一二年には一〇五二名を数えていた本道の娼妓も・・終戦時においてはわずか四五〇余名にすぎなかった。この人員では二万名に及ぶ進駐軍将兵に接するには不十分であり従って、経験ある婦女子の確保が警察部の大きな課題であった。警察官自身も農村漁村を訪ね、毛布、足袋、砂糖を贈って・・・説得し、協力を求めた。・・本道の特殊慰安婦は総勢七七〇名に増強された。」

兵庫県警察
―警部・警部補が遊女屋の設営作戦―
 「保安課の任務は何か?外でもないそれは八月一八日に内務省が発した『占領軍の進駐時に合うように進駐軍将兵用慰安施設の設営を急げ』という緊急指令を実行する事であった。・・内務省の指令は・・いわば性の防波堤を築こうというわけである・・」

 ほかにも多くの「県警の歴史」には、内務省の通牒に基づいて慰安所を設置した事が記されていますが国会答弁ではこのことを認めようとしません。

 私の質問に警察庁山本博一総務審議官(当時)は次のように答えました
 「先生のご指摘は各県警の歴史の中にそのような記述があるということかと存じますが、各県警が独自に作成したもので警察庁としては何らの関与も行なっていない」

さらに、当時の沖縄の情況はさらに過酷なようであった。
沖縄県収用委員 第8回会審理記録
又吉京子
http://www.jca.apc.org/HHK/Kokaishinri/8th/Matayoshi8.html

これは南部のほうです。いかに中部から南部に沖縄の戦闘が激しかったか、そこに陣地がいっぱいあったか、そこに慰安所が併設されているかというのが分かると思います。それと同時にもちろん、渡嘉敷島とか、それから伊江島宮古島石垣島など、全島くまなくあるわけなんです。軍隊と慰安所のこの構造というのは、実に女性たちを差別していく何ものでもないわけなんです。この日本軍の従軍慰安婦を同行するというのは、世界の軍隊でも稀なことなんです。このような発想は実は戦後、敗戦と同時に1945年8月、かつて日本軍が中国でやったことを東京で起こすなという呼びかけで、特殊慰安施設を施設協会なるものがつくられたんです。内務省と警視庁の肝入りで、東京都に25ヵ所もつくられました。新日本女性に告ぐという呼びかけで、そういうものができたわけなんです。・・・・・・・・・
そのころ、東京では慰安所がつくられるということで、一方で沖縄ではどういうことがあったかと言いますと、占領軍の占領意識は兵隊たちまで意識を変えたわけなんです。それで、この鐘は部隊に近いところの集落にかけられているものです。収容所のところです。これは夜な夜な集団で米軍の兵隊が集落内に襲ってくるときに、危険を知らしめる鐘だったんです。このボンベを打ち鳴らされる数は、あるいはそれ以上の数が女性たちに性的暴力を奪っていったという、一つのシンボルといいますか、今でもこれは砂辺地区に残っているボンベです。このことを島マスさんは「女性は安心して当時は外出もできなかった。家の中にいても、いつ米兵が入ってくるか分からない。人々は自衛手段としてボンベの鐘を打ち鳴らしました。占領地の沖縄は無法地帯でした」という表現があります。

 そのときの状況、1944年から45年のサンフランシスコ条約前の女性に対する被害というのが、講和条約前の補償委員会のほうで出されております。その資料によりますと、強姦及び致死傷害が76件、それから拉致の恐れを感じて車や崖から転落をした事件が7件にも及んだというんです。
・・・・・
 そのような中で、由美子ちゃん事件が起こりました。戦後10年目のエイサーを踊るほどに復興し、市民生活も少しばかり安定した1955年9月8日、占領意識を色濃くもった米軍の兵士による、6歳になる永山由美子ちゃんを石川市から車で拉致し、嘉手納基地に連れ込み、軍施設で暴行殺害し、施設内のちり捨て場に捨てたのです。犯人は米陸軍軍曹でした。逮捕後、軍法廷で死刑の宣告を受けたんですが、当時、沖縄では治外法権下で十分な裁判、それから取り調べの状況など、ほとんど知る余地がなかったんです。後で分かったのは、ワシントンに送られて、45年の重労働刑に軽減されたということなんです。

「考証・半村良」注釈
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/2466/html/hyoron/sr-cyuusyaku.html

RAAとは「Recreation&Amusement Association」の略で、「進駐軍特殊慰安施設協会」のことである。アメリカ人から日本の純潔を守るという目的で、昭和20年8月28日に銀座にて設立された。施設の第一号は大森の「小町園」。
 「いいだ・もも」著『戦後史の発見<上>』(1975年刊)によれば、昭和20年8月18日に内務省警務局長橋本政実から、全国の警察網に「進駐軍のための特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」という秘密無電指令がとぶ。それを受けた業者のために、大蔵省主計局長池田勇人(のちの内閣総理大臣)が勧業銀行を通して融資の約束をする。銀座のRAA本部前に立てられた看板には「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。ダンサー及び女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎・被服・食料全部支給」と書かれていた
 半村良の『昭和悪女伝』では昭和20年8月28日に皇居前広場で設立記念式を行っていた。筆者が確認したのは『読売報知』8月29日の新聞広告で「特殊慰安施設協会 電話 銀座 九一九−二二八二 職員、事務員募集 京橋銀座七−一 募集人員五十人(男女問ワズ)(高級待遇) 毎日午後一時〜四時まで、本人来談のこと、自筆履歴書」と書かれていた。こちらは看板とも違い、進駐軍やダンサーという文字も入っていない。ちなみにRAAはGHQにより昭和21年1月24日「公娼の廃止」が指令され、3月10日にRAAの閉鎖を通告される。

銀座での「新日本女性に告ぐ」の看板の反響について。

老舗・名店が慰安施設に。防波堤になった女性たち
http://www.funfan.jp/avenue/ginza/ginza20_02.html

銀座の顔を変えた。政府はその開設に先立ってこんな広告を出した。
「・・・・・・新日本女性に告ぐ
戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐留軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。ダンサーおよび女事務員募集 年齢一八歳以上二五歳迄。 宿舎、被服、食糧全部当方支給。」
食堂部、キャバレー部、遊戯部、芸能部等々に分かれ、慰安部は芸妓、娼妓、酌婦、ダンサー、女給など計五〇〇〇人の大募集だった。
“駐留軍兵士からわが国婦女子をまもるため”という大義名分、“宿舎と被服、食糧全部当方支給”の魅力、前借りや旅費の支給制度もあってか、衣食にもこと欠く女性たちからの応募が殺到したという。 東宝ビアホール(七丁目)、キャバレーの千疋屋(八丁目)、録々館(三丁目)、ダンスホール伊東屋(三丁目)、ビリヤードの日勝亭(八丁目)、バー・ボルドー(八丁目)など、米軍施設となった老舗や名店がこうした女性の職場となった。一時は都内に七万人を数えたというが、RAAの施設から半年あまりの二一年三月、性病防止を理由にGHQによって解体された。その頃には五万人程度になっていたというが、占領軍の指導で生まれた日本人経営のキャバレーなどが受け入れる人は限られていた。行きどころのない女性たちの多くは銀座、有楽町、丸ノ内界隈の夜の女として立つようになった。

伊東屋物語 占領軍、銀座に進駐
http://www.ito-ya.co.jp/history/his_13.html

特にR・A・A(リクレーション&アミューズメント・アソシエーション)と銀座の商人たちの歴史は、敗戦国を象徴する悲惨なドラマでした。R・A・Aとは連合国占領軍人、兵士のための国策特殊慰安施設協会であり、協会の歴史は銀座を舞台にスタートしたのです。現在では戦後政府の初めての仕事が連合軍の慰安婦斡旋だったとあって、“悪評”の高いものでありますが、そのオフィスは銀座パレス(現・博品館)におかれました。銀座八丁目に出された大看板には「新日本女性に告ぐ。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食料全部当方支給。」の文字が見られました。家も家族も失った若い女性が“駐屯軍慰安”の仕事についたとして誰が非難できましょう。R・A・Aの歴史は戦後女性史に悲しい記録として刻まれています。