松平宮司と徳川侍従長の確執

松平永芳宮司の語るA級戦犯合祀と中曽根参拝
http://www2.big.or.jp/~yabuki/doc01-8/yasukuni.htm

私はお受けするということを最終的に決心する前に、いわゆる東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできないと思うから、いわゆるA級戦犯者の方々も祀るべきだという意見を申し上げた。

これは松平永芳宮司の言葉です。松平宮司がこのように述べているのですが、その真意のほどは推しはかりかねます。漠然と、東京裁判において日本人の心が落ち込んだので、この裁判で有罪であったA級戦犯を合祀することが日本の精神復興につながるという考え方でしょうか・・・。東京裁判による「昭和殉難者」という言い方もかなり苦しいと感じています。

また、下記の記述もあります。
徳川義寛侍従長の遺言 昭和天皇との50年』
 昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる。
これを見ると、天皇に近い存在であった徳川義寛侍従長も、松平永芳宮司のA級戰犯合祀の決定をよしとしていなかったようです。

昭和天皇がどうして靖国へ行かなくなったかは、次のサイトに言及があります。

昭和天皇靖国へ行かなくなった』
http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html

靖国神社の合祀者名簿は例年、10月に神社が出してくるが、1978年は遅れて11月に出してきて、A級戦犯を合祀したいという。その10年ほど前に総代会はA級戦犯を合祀する方針を決めていたが、旧皇族である宮司筑波藤麿さんが先延ばししてきたのに、宮司が代わると間もなく合祀を実施した。徳川氏は「松岡洋右さんのように軍人でもなく病死した人も合祀するのはおかしい」などと問いただしたが、押し切られた。

ここらあたりから推察するに、松平宮司と徳川侍従長の確執があったのではないでしょうか。
靖国詣でが合祀以後なかったことは、徳川侍従長の進言か、昭和天皇の判断か、わかりません。