自己責任

10年くらい前からだろうか、「自己責任」という言葉がよく使われるようになったのは。自己責任ということは、自分で判断し、判断したことは自分で責任を負うということだろう。新自由主義がとりざたされ始めてよく使われるようになったと思う。ちなみに、国語大辞典(新装版)(C)小学館 1988にはこの言葉はない。

新自由主義のもとに、規制緩和がすすめられ、競争はあらゆる分野や組織に及ぶ。そこでの判断には自己責任が問われる。つまり、自己責任ということは、個人が責任を負うよいうことで、国家は責任を負いませんということだろう。たとえば、金融で規制緩和がすすめば、そこには激しい競争が生じる。そうなるとリスクが発生し、過去のように国が面倒見ませんから、個人の判断でということになる。

新自由主義の考え方は、社会から規制を取り去り、そこで競争を徹底的にやらせようというものである。そこには、勝者(勝ち組)と敗者(負け組が)が生まれ、機会均等や平等性はその機能がいちじるしく低下する。それは、民間ばかりでなく地方公共団体も同じである。都道府県知事が地方公共団体の社長であり、国からある程度自由なカネが与えられ、それをつかって、より自治体を強固に発展させることが、社長(知事)の能力となる。

これは、かつてある程度日本国民ならば、どの県や市町村に住んでも同じような行政サービスを受けられたが、今後は、金持ちの都道府県と貧乏な都道府県では、サービスにかなりの差がでてくる。しかし、それは自己責任である。都道府県の財政がよくないのも行政のやり方が悪いし、ひいては、そこの住民の責任にもなる。大企業を引き入れ、それなりの財政力を持つ自治体が、勝ち組になりかねない。

それは、教育の分野にも及んでいる。たとえば、飛び級というものがあるが、「能力さえあれば、どんどん先に行っていいよ」と、言うことである。公立でも中高一貫高校ができ、入試競争は完全に小学校に引き下げられた。これは、競争を低学年化させることにつながる。少人数授業というものが特定の教科に導入され、能力別に"効率的"に授業が進められる。高校では総合学科という安上がりで、まさに、ホテルのビュッフェ形式の献立のように学科が並んでいる。

もっと、切実な問題は自己責任をたやすくとれない人々もいるのである。それは、仕事が無い人々や仕事をしたくても、様々な理由でできにくい人々である。そのような状態も「自己責任」である。努力が足らないということである。

日本はどこへ行こうとしているのだろう。競争原理は圧倒的な勝者はつくるだろう。それと同じような「暗たんたる人々」もつくりだす。今、まさに世界では、グローバリズムという嵐が吹き荒れ、競争にさらされ、自己責任という名目で、勝者と敗者の固定化が進められ、その固定した内部でさらなる競争が仕組まれている。網の目のようにはりめぐらされた競争によって負けることは「自己責任」である。

帝国主義による植民地支配よりも巧妙に、今、世界はアメリカを頂点としながら構造化されている。日本はその構造の中で、確固たる地位を占めるために、イラクへ派兵しようとしている。アメリカから日本は「自己責任」がとれない国として名指しされ、その汚名を振り払うことが使命のように。