狂気の唄

 このサイト自体は知らなかった。噂の後に、そのミラーサイトを見てみた。このミラーサイト自体も現在は消えている。
 16歳高校1年生のサイトである。詩・写真・日記・BBSなど構成的にはどこにでもあるようなものであった。詩(多分そのように意図されたもの)を読んでみた。そこには、多分、彼女の日常から隔離された世界がねつ造されているように感じた。ねつ造という言葉が、誤解を生むなら、リスカする現実(これとてリアルとは違うのであろうけど)とそれから想起される世界の扉を開けるための作業の結果のような気がした。
 それは、或る意味ものまね文化の象徴ようであり、そのような方法論と精神のロンドが幾重にもからまり、そこに自己埋没させることへの快楽が見て取れた。TVのコメンテーターの発言は、薄っぺらで、「彼女は頭が良い」、「文学的な才能を感じる」などというもので、そこから引きださせるもの何も感じえなかった。ただ、どうしてこのような若者が、このような事件を起こすのかという疑念の提起でしかなかった。そのようなコメントが、一つの国民的意識形成と理解への戸惑いになるのであろう。
 僕の疑問は、自己埋没させながら、自殺願望する(自殺願望も、一つの自己装飾であるかもしれないが)彼女と彼が、いかにして両親と兄弟の殺人への衝動に突き動かされたかである。今の段階では情報が少なすぎて、判断は下されない。
 かつて、金属バット殺人が話題になり、子どもの親殺しが問題とされた。その時代から、すでに、20年以上が経過していると思う。それは、確かな家族崩壊の序章に過ぎなかった。
 一見、大人しい子どもが、突如として親殺しを企てる。それを実行する。それがどのような意味を持つのだろう。彼女の交際相手である彼が、彼の家族と彼女の家族を殺害し、彼女の家で二人で過ごし心中することで完結させようとしたモノは何なのであろう。いみじくも彼が言った「自分だけが死ぬのは寂しい」という言葉は何を意味するのであろうか。彼女と彼がお互いに惹かれあったものは、「生きるべき人でなく、一緒に死すべき人」に象徴されるのかもしれない。
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 ある種の願望と妄想が一体となるなら、それは、殺人に繋がることもあるのかもしれない。この事件をあつかった新聞を読んでみると、
・・・・・記事・・・・
現実とバーチャルの世界を行き交い、家族殺害計画を供述する2人に、同支部と府警河内長野署捜査本部は「理解困難で、精神状態を正確に把握する必要がある」と判断した。
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 このバーチャルという部分の解明がほとんどない。「現実とバーチャルの世界を行き交い」という部分で、彼女のサイトにおける自殺願望はうかがえるが、親への恨みの部分においてはさほど多くを感じなかった。TVを見ると、彼女のサイトの親への不満の部分をとりあげ、これが、いかにも親殺しの動機のように取り上げられていた。しかし、その後の彼女の反応を新聞記事で読むと
・・・・・記事・・・・
一方、HPに“自殺日記”を綴っていた少女の弁護士は5日、少女が「家族に恨みはなかった」と話していることを明らかにした。少女は「『親が邪魔だった』と報道されている」と伝えると、「へぇー」と驚き、自傷行為は認めたが、「自殺するつもりはなかった」と話した。
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 この記事の“自殺日記”という表現も、僕が彼女の日記を読むかぎり、適切さに欠けていると感じた。さらに、新聞記事でも、矛盾することを記述されている。
・・・・・記事・・・・
2人は「一緒に暮らすことを親に相談しても反対されると思い、家族の殺害を計画した。」などと供述しています。殺害決行の日は連休前日の今月1日と決め、学校が始まるまでの数日間をどちらかの家で暮らし、その後、心中するつもりだったということです。2人は、携帯電話のメールなどで頻繁に殺害計画を相談し、先月下旬にそれぞれ包丁を購入しました。また、女子高生は「自分1人では家族の殺害が難しいと思い、大学生に手伝ってもらおうと待っていたものの、大学生が失敗したと聞き、2人で逃げようと思った」と話しているということです。
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しかし、彼女の弁護士によると
・・・・・記事・・・・
女子高生の付添い人の清金慎治弁護士らが昨夜記者会見し、「家族は邪魔ではなかった」などという女子高生の心境を明らかにしました。清金弁護士は「包丁を買ったということについて『どうするつもりだったの?やっぱりじゃまだったの?』いうこと(質問)に対して、『別に邪魔ではなかった』ときょうも言っていました。だから別に憎しみも持っていないです。『ずっと2人でいたい』というのが彼女の表現ですね。」と女子高生との接見の様子を話しています。また、清金弁護士は「文学が好きな頭の良い子という印象で、今の段階では精神鑑定の必要は感じられない」と話しています。
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 これを読んでみても、彼女に関して、体系的に心情がつかみとれていないことがわかる。捜査本部は精神鑑定の必要性を訴え、付添人の弁護士は必要ないと言う。報道では、親に対する恨みがあるとされ、本人は、『別に邪魔ではなかった』という。
 しかし、この邪魔というものが、何を意図したものか不明である。両親の存在が、彼女の日常といわゆるバーチャルな日常においてなのか、彼女と彼と共通現実の拡大においてなのか、つきつめれば、彼女の自死においてなのかが不明である。ある部分においては、確かに邪魔ではなかったろうし、ある部分においては邪魔であったのかもしれない。僕はこの点を次のように感じている。多くの部分において、報道が邪魔という用語を用いたから、彼女はその否定をこめて『別に邪魔ではなかった』と言ったように思う。
 では、なぜ、彼女と彼は親殺しを実行しようとしたのだろうか。しかし、そのこともどれだけ彼女の中で本気であったかは不明である。つまり、彼女は「自殺するつもりはなかった」とも供述している。
 現在の乏しい情報の中で、僕が今考えること書いてみる。もちろん、これは僕の単なる推測であり、それ以上の何らの確信もない。
 彼女と彼の間に、当然であるが、意識の隔壁があったのだと思う。彼女の現実といわゆるバーチャルな現実での中で、夢想され妄想されることは肥大化していった。そのアイテムは、たとえばリスカであり、親血的表現であり、内蔵回帰であり、自死であり、恍惚願望であり、自己愛であり、心中願望であり、親殺しであり・・・、そのようなアイテムを駆使しながら、自分の空虚を埋めたのであろう。さらに、彼女の彼に出会う前の失恋という現実が、それを加速させたように思う。
 彼女にとって、サイトでの様々な表現は、それらのアイテムを存分に思うがままに表現できる空間であったように思う。
 たとえば「自死」というアイテムは、自己陶酔であり、死への願望を叶える手段である。しかし、それは、そこにはとどまらない。自死のまわりには、それを飾るかのように家族の死体が横たわり、同時に、自分だけが死ぬのではなく、彼とともに心中するのである。
 『ずっと2人でいたい』という表現は、生きて2人でいるということより、いつか仲たがいをして嫌な思いをするのでなく、2人の最上の瞬間に心中することにより、永遠を共有したいという願望の方を強く感じる。
 彼女の現実を埋めるための妄想と彼の妄想が、多分に共鳴して、その結果、今回のような事件が起きてしまったように感じる。また、実際に殺人を犯した彼のことについては、きわめて報道が少ない。まるで、彼女が彼をして殺人に導いたような感覚を与えさせる。
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8日付の新聞記事によると
・・・・・・・・引用
 大阪府河内長野市の家族殺傷事件で、殺人予備容疑で逮捕された少女(16)が、開設したホームページ(HP)について「創作だった」と、接見した弁護士に話していることがわかった。
 7日に接見した清金慎治弁護士によると、少女は「HPは単なる創作。虚構であって内面の表現ではない。あれだけ見ると、変な人だと思うでしょうね」と説明。HPを開設した理由については「自分に関心を持ってほしかった。見てくれないとさびしい」と話したという。
 HPの日記には、「死にたくなったらどうしたらいいんでしょう」などと、自殺願望をうかがわせる記述が並び、交際していた少年(18)=殺人容疑などで逮捕=とみられる男性のことを「一緒に死ねる相手」と記していた。
−−−−−−−−−終わり
 この記事だけから見ると、アイテムによる自己装飾という僕の仮説も、はずれてはいないようである。しかし、それだけのものかと言うと、よく分からない面がある。つまり、現実とバーチャルな日常において、彼女がどれだけの境界線を持ちえたのかということである。
 過激に装飾された自分と装飾しようとする自分と素の自分とこの3者野中で、どれだけの現実の自分がいたのだろうか。彼女の言う「HPは単なる創作。」という表現は、今、置かれている自分とサイト内の装飾された自分を意識した表現のように思える。しかし、少なくとも、この事件が引き起こされ、明るみになる前の段階で、どれだけ明確にこの境界線は存在したのだろうか。
 サイトにのめり込んでいた彼女にとって、現実の素の自己存在はだんだんと軽く小さくなっていたように思う。それは、現実というフィルターを通過しないままに、装飾する自己と装飾された自己を行き来したようにも感じる。
 さらに、やっかいなものは、弁護士の介在である。確かに彼女の量刑を軽くしようと思えば、彼女のサイトは創作であり、自己反映は少なくした方が有利であろう。つまり、彼女の両親への恨みや殺意をふくめて、それはきわめて創作的であり、現実に企図しようしたものではないということを表明するほうが有利である。その意味においては、この「HPは単なる創作。」という表現は、その額面通りには受け取りにくい。そこに、どれだけの弁護士のアドバイスが介入しているかである。
 以前の報道で、彼女が両親に恨みを抱いていたというものに対して、彼女は否定をしていたが−否定というより驚いていたが−多分に、その部分にには、彼女の本音を感じる。それは、彼女のサイトが彼女の意図したものと違って、独り歩きするものだという認識に近いのかもしれない。
 それにしても、報道において、彼女については豊富にあるが、母殺しを犯した彼についてはあまりにも情報が外に出ない。掲示板などでの書き込みでは、彼が彼女に触発されたという意見が多い。しかし、僕はそのような図式に簡単に置き換えられないと考える。
 僕には、彼が根源的に家族殺しを企図するモノを彼が抱いていたように感じている。彼女が家族を殺すかはわからない。首尾よく彼の家族殺しが成功裏に終わり、その足で彼女の家に行くならば、彼は少なくとも彼女の家族を殺そうとしたかもしれない。彼女が用意した包丁は、そのためであったろう。もちろん、包丁の購入は同意と実行の証であったように感じる。
 この事件の真相はどこにあるのだろう。少なくとも、それを解き明かすには、多くの時間が必要である。もっと言えば、不可能かもしれない。すでに、彼も彼女も、【あの時の彼と彼女】ではない。それは、特殊な状況があみだす一瞬の快楽のトキように、今は、そのトキの状況から開放されていると思う。それを再現することは尋常なことではない。
 「早く学校にもどって映像の勉強がしたい」という彼女の言葉は、まさにワガママにしか聞こえないが、弛緩した心理の彼女にとって、普通の言葉であろう。素の彼女の現実の言葉として受け取っている。
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 毎日新聞の11月7日付に次のような記事があった。
・・・・・・・引用
男子学生は逮捕後、「彼女と一緒に暮らすには両親が邪魔だった」と、殺人予備容疑で逮捕された女子生徒(16)と同様の供述をしていたが、最近になって「2人だけで死ぬのは寂しかった」と説明しているという。
自分の自殺願望を繰り返し述べ、「家族がそろった状態であの世に行きたかった」などと動機について新たな供述を始めたという。
−−−−−−−−終わり
 この記事を読んで、「家族がそろった状態であの世に行きたかった」という考えで家族が殺されたのは、自己中心的というしかない。しかし、これだけではないように僕は感じている。
 それは、以前にも述べたように、家族の死の中で自分たちが死すような状況が欲しかったような気がする。それは【儀式的な死】という形で、自己装飾する感情のあらわれたように思う。
 自己死と他死の間に、大きな溝があるよに思う。家族殺しにおいては、包丁を用意して、周到に準備しながらの具体的な方法があったように感じる。一方、彼と彼女の死においてはそれは具体性を欠いている。二人で暮らして数日で心中するというようなあいまいで、方法もはっきりとしない。【儀式的な死】に対して【観念的な死】という印象がする。
 さらに、【儀式的な死】に関連して想起されるのは、犠牲的装飾という意識ではなかったろうか。家族の死を拝しながら、まったく自己中心的に彼と彼女は死のうとしたのならば、それは犠牲という形で家族を殺し、同時に、それは彼の中で意識的に家族と共に昇華しようとした。自分たちが死ぬためにあらかじめ用意されておくべきことは、家族の死のように彼らは考えていたのではないだろうか。
 この部分での彼らの意識は僕にはわからない。ただ、彼と彼女の死は、自分たちだけの死において完結できるとは考えていなかったらしい。それは、自死のの必然に付属するもののように考えたのではなかろうか。それは肯定されるものではないが、想念として、そこには家族に対する恨みをつくりだし、自死と家族の死を必然に結びつける行為であったように思う。
 彼女の文章での家族への恨みは、それは、現実の恨みでなく、家族の死を必然にするための道具であったかもしれない。もっといえば、彼女のサイト全てが、自死の肯定と家族を殺さざるをえない存在に仕立て上げるための装置だったかもしれない。
 リスカする人は分離不安が強いという。自死は現実の全てとの分離とするならば、そこに家族の死を欲求するものかもしれない。しかし、家族を巻き込む合理的な理由がなければ、そこには、想念として理由をねつ造しなければならない。僕が最初に感じた彼女のサイトのねつ造の臭いはそのような所から派生しているのかもしれないと感じた。
 この文章は、すべて僕の予断で書いている。また、2003年11月に書いたものの再掲である。