アンダーグラウンド

この本は、地下鉄サリン事件に遭遇した人々のインタビュー集である。それぞれ人々のの平常の生活と、その連続の時間系列で飛び込んできたサリン事件。そのことによって、平常の生活を緊急な感覚(死を覚悟した)で別角度で見ることができる。そのことが二次的な不幸や連鎖的な生活の崩壊へ導くこともある。

「彼らがやったことがよく理解できないし、理解できないから憎しみの実感が湧いてこないのかもしれないですね」
        早見利光さん 当時31歳

早見さんの言葉は、この事件の加害者を許す言葉でない。自分の日常の生活の感覚からかけ離れたことで、その行為を理解できないから、理解できないこと−自分の脳で判断することのできないこと−だから、憎しみという感情も湧いてこないという意味だろうか。憎しみというものは、かなり感覚的・感情的なものだと思う。この憎しみが、理屈としての理解ができないから湧いてこないというのも、不思議な感じがした。

この「アンダーグラウンド」で重要だなと感じたのは、それぞれの人々の平常の生活や家庭や会社のことが丹念に書いてあることである。その平常と異常なこの事件の落差−同時に関連とその根源−を描き出すことがこの本の目的であろう。そのような思いで、早見さんのインタビュー記事を読んでみた。
上の引用に続く早見さんの言葉。

もし、先になって何か自分の身に何か問題が出てきたとしたら、それはどうしようもない怒りを感じるでしょうが、今のところは・・・。

この部分を読んでみて、何か咽のつかえが取れる思いがした。早見さんの場合は、後遺症も軽く、入院も二泊ですんでいることが、先の言葉のバックボーンにあったようである。僕には、異常な事件の影響が、少なくとも平常な生活に多大な影響を及ぼさなかったことが、この感想の根源にあったように思った。

つまり、今回の事件は、日常の生活にさほどの影響を及ぼさなかったことが、冷静に考えようとする余裕を与えたのではないだろうか。そこで、今回の事件を「理解しよう」と試みたが、その加害者の集団が自分の感覚や価値観とは異次元のものであり、とても理解できるものでなかった。このことで、早見さんの中で平常と異常な事件との間に完全な境界線が引かれたように感じた。

しかし、もし、この事件により日常生活が多大な影響を受けるような二次被害にあったのなら、それは、平常に異常な感覚が同居するような境界線の消失をうむのでなかろうか。そうなれば、理解という思考でなく、感情的な憎しみが湧きあがるのであろう。早見さんの日常を記した部分を読むと、彼が冷静に思考しようという態度が書き表されている。そのことが、先の発言をうみだしたのだろう。そのように思った。