ねじまき鳥クロニクル

この本の「満月と日蝕、納屋の中で死んでいく馬について」の章で、次のような一文がある。

ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのだろうか。

このような疑問から始まるこの章において、村上春樹は僕という主人公が彼の妻(クミコ)についてまったく理解していなかったことを、平常の生活の中から見事に描き出している。象徴的な妻の言葉がある。

「あなたは私と一緒に暮らしていても、本当の私のことなんかほとんど気にもとめていなかったんじゃないの?あなたは自分のことだけを考えて生きていたのよ、きっと」と彼女は言った。

この部分を読んで、僕は僕の失敗した結婚生活のことを考えていた。まさに、この通りだった。僕は自分のことだけを考え、「ほんとうの私(妻)」のことなど考えていなかったように思う。考えていなかったというより、考えることを避けていたのだろう。「ほんとうの私」を考えることは、同時に、自分の弱さや虚偽の結婚生活を考えることにつながった。それを避けるために、考えることを先延ばしにして、自体をますます悪くした。

この本の中の僕は、妻の不機嫌を彼女の生理周期と彼の知識の中の「納屋の中での馬の死」に関連づけることで、この夫婦の不幸な状態を理解しようとしていた。それは、僕が犯したようなマチガイと同じく、自分の知識の中で彼女を理解したに過ぎず、「ほんとうの私」を理解しようとしたものではない。つまり、本当の現実の理解を先延ばししただけのことだろう。

そのような状況の中で、僕は妻とベットで一緒に寝ながら、天井を見て考えている。

僕はいつかその全貌を知ることができるようになるのだろうか?あるいは僕は彼女ことを最後までよく知らないまま年老いて、そして死んでいくのだろうか?もしそうだとしたら、僕がこうして送っている結婚生活というのはいったい何なのだろう?そしてそのような未知の相手と共に生活し、同じベッドの中で寝ている僕の人生というのはいったい何なんだろう?

僕たちは平常の生活の中で、自分なりの理解で生活している。それは、自分の考える世界である。しかし、同時に、その理解は、実際の「有り体の現実」とはズレがあるものだ。そのズレに気づきながらも、その自分の理解を壊したくないために、もっと理解しようとしないのかもしれない。少なくとも、僕の結婚生活においては、積極的に「理解すること」を避けていたのだろう。僕の日常に垣間見せる彼女の日常で、僕の知らないことに対して、探ろうとはしなかった。結局、それが僕たちの結婚生活を悪くして、離婚のおよんでしまった。

この本の中では、僕が知らない彼女の黒い髪の間から見えた「魚のかたちをした小さな金のイヤリング」に象徴されている。まさに、髪の間から垣間見れる「ほんとうの私」の一部なのだろう。

最初の問いに戻るならば、それは不可能だろう。不可能であるが、「自分は理解している」と思うような状況になることは可能だと思う。そうして、そのズレと誤差が広がることを防ぐような理解への努力が、二人の関係を持続させる秘訣のようにも思えた。僕はその努力を怠ったであろうし、怠ることで、偽の現実の中で自分を埋没させていたに過ぎなかった。そのよううなことをこの章を読んで考えた。