さいごの会話

金曜日F市で開催されたadobeCreative Suiteセミナー後にのジュンクドウで渋谷望氏の著作「魂の労働」を買った。ちょうどその時、職場の事務員からケイタイに電話があった。簡単な事務連絡であった。
本屋の近くの居酒屋のカウンターの隅で、焼き鳥を注文し焼酎を飲みながら夢中になって読んでいた。

この本のp.10に次のような記述がある。

新たな権力ゲームが開始されたのは具体的な日付をここでは68年とみなしたい。では、新たな権力ゲームで負けたのは誰か?何らかのかたちで古いゲームに依拠していた主体であり、誤解を恐れずに言えば、レフトと呼ばれる陣営である。もちろん前者には保守的な陣営も含まれる。だが一般的にいえば、負けたのは従来の左翼(オールドレフト)であるのみならず、新しいゲームで主導権を握っていたとみなされる陣営、すなわち、ニューレフトであり、「新しい社会運動」である。とりわけ指摘しておきたいのは「文化を通じて政治や抵抗の可能性」−それはしばしば「文化左翼(カルチャー・レフト)」と蔑称的に呼ばれるものに帰せられる−が新たな権力ゲームで敗北したことである。しかも決定的に。それはなぜだろうか?

店員が急に「お客さん、以前ここで飲まれた方が声をかけられているのですが」と言った。
「誰?」と言ったら、店員は「カネモトさん」という。
「知らないな」と僕はこたえた。
それまで、焼酎を飲みながらこの本に没頭していた。

その後にこのようなくだりがある。

本書の試みはカルチュラル・スタディーズのもう一つの可能性をこじ開けることである。カルチュラル・スタディーズの最大の功績は、新たな権力ゲームでの左翼の決定的な敗北を確認し、それがなぜか問うことにある。そして、この問題は、誰がどのようにして勝ったのかを分析することを通じて検討することができる

昨日、僕が書いたことで、少し補足してみる。

一方において「左と右」というような二元論に帰着させて、「劣化ウラン(弾)問題」を別な部分に持っていこうという感じを受けたことである。

僕自体が「左より」だろうが「右より」だろうが、どのように見られようとどうでもいいことだと思っている。僕自身の考え方には「いわゆる左的な部分も右的な部分」もどちらもが混在してあると考えている。

「新しい歴史教科書を考える会」が巻き起こした日本人の歴史認識−今までの認識を自虐史観としたことなど−について以後の論争の中で、この左と右がさらなる不毛の対立の構図をつくりだしているように感じている。もちろん、この論争の火種になった自虐史観の論拠を歴史の闇に封じ込めることには賛成しない。

しかし、残念ながら−それは劣化ウラン問題でも感じるものであるが、言説の接点が見当たらなく、それぞれの陣営のアゲアシとりになっている現状がある(あった)−認識の発展性が見えなかったように思う。このような不毛な論争が続けられながらも、社会のパラダイムは急速に変化している。変化に取り残された化石のように論争が続けられることが、どれほど有効性があるのだろうか。

特に、「従軍慰安婦」、「南京大虐殺」などの問題で、これらの論争が左右の陣営に割り振られているのではなかろうか。論争を否定するものではないが、僕自身がそのような割り振りの一部になることは避けたい気持ちがある。「劣化ウラン(弾)」についても、感覚的に同じようなにおいを感じている。論争は重要であるが、「論争のための論議」になって、全体の冷静な情報収集や思考のあり方がとれないと考える。

自分の考えの正当性のために断片的に資料収集し、それをもって自分の論理の正しさを競うことは、時として事実認識が妄想へと変わるのでないかという危うさを感じている。それで、上記のような僕の意見になったということである。

「魂の労働」のp.11-12に次のような一文がある。

敗者を見つけ、名指しすることになぜそこまでこだわるのかといぶかしがる人もいるかもしれない。あるいはそれは左翼の「自虐史観」ではないかと、だが、負けや劣勢に気づかないことほど致命的なことはないし、滑稽なことはない。負けているにもかかわらず、依然として自分たちは「勝っている」あるいは「互角に戦っている」と信じているプレーヤー。疑似的な公共性にすぎないものを「公共性」や「民主主義」といった用語で粉飾し、その勝利を疑わない態度はこれと同じではないだろうか。

僕は自分を敗者の一部だと自覚しているが、粉飾し勝利しようとする者にはなりたくない。

土曜日14時に、金曜日ジュンクドウにいた僕に電話してくれた事務員が倒れたという知らせがあった。くも膜下出血のため緊急入院して手術があった。命はとりとめても、植物状態という医師の判断である。
ふと「あの電話での会話がさいごだろうか」と思った。