死亡したらお知らせします。

僕の勤務先は本部の支所のようなとこりで、ここには事務員二人と僕の3人がいる。勤務は一定のすることと、不定のしていいことがある。時間の割り振りがきく部分もあるが、仕事は結構ハードである。

事務員は土曜日の12時少し前に倒れた。母と彼女の二人暮らしで、救急車が呼ばれたが、車内で脈をとろうとしてもとれなかった。医師は、彼女が重篤であることをすぐに感じていた。

僕ともう一人の事務員は、14時30分ほどになって、病院に到着した。緊急治療室に彼女はいた。まさに手術を始めようとしていたが、再度、検査すると瞳孔が開いていてすでに脳死状態であった。手術は中止された。

月曜日、病院に行く。彼女は集中治療室である。鼻と口に大小のパイプが挿入され、点滴を受けている。意識はない。顔色は、赤く、血圧は上が110で下が60である。心拍数は100である。これがどのようなことを意味するのかわからない。

彼女の母が、僕に紙を渡した。そこには、病状と医師の所見が書いてあった。脳死状態で、すでに延命治療であること。手術はしても、植物状態を脱するものでないこと。このままだと、個人差があるが、1週間から2週間であること。

僕は彼女がそこに生身で生きていながら、頭の中の脳がすでに死んでいること。つまり、考えることもできないこと。所見には、強い刺激を与えても、足先が少し反応する程度とあったが、なんだか、黒々とした髪の下の頭の中の脳が固まって石化しているようすが透けて見えるような気がした。

肺は人口呼吸器によって無理やり動かされて、ボンベからの酸素を無理やり吸引されている。吐く息の音が静かな部屋に周期的に響いた。生きているのでなく、生かされている。延命のための機器を止めれば、それは、脳以外の人体の死につながる。心臓からの血液によって、身体は腐敗せずにいる。

僕と事務員は、意見の違いから時に論争した。それは、時には左寄りのプロパガンダに対して従順な彼女に対し、いらだったような口調で、「そうじゃなくて、それだけの見方じゃ事実がとどかないよ」などと、傲慢だった。それは、確信をもって生きる人間に対する嫉妬の裏返しなのかもしれない。

彼女の有機物はすでに無機物と隣り合わせで、すでに、この世のものでなく、どこか抜け殻のようで、実態をもちながら存在が希薄だった。
金曜日の17時30分、電話の事務連絡の会話が彼女の主体的発声の僕にとっての最後であった。その後として。ベッドに横たわる彼女の存在の落差が、僕には埋め合わせがつかなくて、僕は彼女の存在を希薄に感じるのだろうか。

彼女の母が、大学時代の彼女の親友に医師の書いた所見をファックスしてくれという。これだけ、ファックスしたのでは、友人はびっくりするではというと。所見の下に母は付け足した。

「まもなく死亡します。死亡したらお知らせします。○○の母」

死亡という表現にちょっと驚いたが、すでに死んでいるという実感があって、死亡という意味は完全に死んでしまうことなのだろうかと気丈なる彼女の母の思いを感じた。


死して死ぬものでなく死亡において完全に死すもの
生の抜け殻の身体の不自由は器械によって生かされ
砂時計の砂が零れ落つる先の器に新たなる首途あれ