殺す権利と「ドメニコの詩」ロウソクの炎

最近、フーコー関連の文章を読んでいる。

「君主は,殺す権利を作用させることによってしか,あるいはそれを抑制することによってしか生に対する権利を行使しないのである。君主は彼が要求しうる死によってしか生に対する権力を示せないのである。『生と死の』として表されている権利は,実は死なせる、、、か,あるいは生きるままに、、、しておく、、、、という権利なのである。」

君主は時に王として読んでいいのだろう。
渋谷望氏の「魂の労働」を読むにつれ、彼がフーコーに影響されたことがよくわかる。「主権権力と統治権力の交差」の冒頭に次のような記述がある。

『性の歴史』の第1巻で、近代の権力の誕生を、「殺す権利(法)」から「生かす権利」への移行として歴史のなかに位置づけた。この場合、「殺す権利」とは王に体現されていた主権ことである。他方「生かす権力」とは、権力の対象である人々の生をむしろ積極的に増進する権力である。それは個人を規律化する知=権力と、規律すべき個人の集合である人口/住民に関する知=権力の総体によって構成される。

ここを読んでハタと思ったのだが、自衛隊イラク派兵の問題である。イラクの治安の悪さを考えて、そこに自衛隊員(国民)を送ることは、そこで国民が死ぬこともあるわけである。戦闘状態かそうでないかは、意見が分かれても、死ぬこともありえるわけである。

そのような場所に「命令」で、自衛隊員を行かせることは国民に死ぬかもしれない危険性を負わせることである。一般の国民には関係がないことではないかと思われるかもしれないが、徴兵制があればそれは一般国民にも影響する問題である。

また、そのような場所では、自国民である自衛隊員が他国民を殺すこともあり得るだろう。もちろん自国民同士の場合もあるであろう。憲法の解釈問題は別にして、今回の自衛隊イラク派遣問題は、国家が「殺す権利」を発動させたことである。自国民が殺される状況は、今回の国家による派遣決定により生まれ、それは積極的な意味で「生かす」のではなく、自国民が死ぬかもしれない環境に国家が命令で国民を行かしめたことである。

同時に、そのことによって他国民を殺すかもしれない状況に至らしめて、それは、最終的な個人の判断であっても、そのような状況で国民は他国民を殺すこともありえる。日の丸の小旗で自衛隊員を送り出す光景は象徴的で、それは、まさに国家によって送り出された人は「殺される・殺すかもしれない」場所に行こうとしている光景のように見えた。

僕たちは、いつのまにか、国家に国民を「殺す権利」を被害的にも加害的にも与えてしまったのである。国家の命令によって、家族の一員が死ぬかもしれないし、殺すかもしれないという不安を与えられたことである。イラク自衛隊員が死ぬことは家族の最大の痛みであり、自衛隊員にとって他国民を殺すかもしれないことは痛みである。その両方の「痛み」を国家が国民に与えるかもしれないことを僕らは認めた。

フーコーは「近代の権力の誕生を、「殺す権利」から「生かす権利」への移行として歴史のなかに位置づけた。」としている。「生かす権利」への移行によってさらなる「殺す権利」の拡大の危険性は指摘されているが、そのことについては、また、別の機会に書いてみたい。