国家 『帝国』

永久平和というのはユートピアなのかと思ったりした。かつて日本は、鎖国をひき、外国への侵略にも加担せずにある意味では永久平和的国家体制であったかもしれない。しかし、引き換えに、徳川家を中心とする国家的監視システムと身分制度を構築した。それは平和であるが、息苦しかったのか、それとも、それまでの戦乱の血なまぐささとの引き換えに、国民はパノプティコンとして管理されている状態をよしとしたのだろうか。

ヘーゲルは戦争を「法の哲学」の中で風にたとえて、「これは風の運動が海を腐敗から防ぐのと同様である。持続的な凪は海を腐敗させるであろうが、永久平和はいうまでもなく、持続的平和でさえも、諸国民を腐敗させるであろう」と述べている。戦争というものを発展的な原動力としての立場である。ヘーゲルは戦争をある意味で創造的な人間の行為としてとらえたのであろう。破壊によって、創造が可能であり、創造のためのエネルギーがつくられると考えたのだろうか。

イラクへの派兵を戦争への加担とするならば(加担なのか、復興なのかは意見の分かれる場面であるが)、それは、戦後の平和といわれた日本の終焉なのか、それともどのような始まりなのだろうか。イラクへの自衛隊への派遣を復興と言い張るのは、僕は無理があると考えている。「国益」として日本はアメリカについたのである。アメリカの『帝国』の潜在的領土になることを欲したのである。しかし、憲法上、イラク戦争に参戦したとはいえない。イラク復興のために日本は危険を冒してでも自衛隊員を派遣するとしかいえない。

日本は戦後、戦争に直接的に参加しなかったという意味での平和があった。それでは、日本という国は、国民にとって「善い国」であったのだろうか。絶対平和主義としての落とし穴にはまったように、正義の戦争を選択しないかわりに不正義の平和を選択し続けたのかもしれない。これは、今回のイラク派兵を肯定するものではない。僕は今回の自衛隊イラク派兵には反対である。それは今回の派兵が「正義の戦争の選択」とは思わないからである。

アメリカによって引き起こされたイラク戦争が正義の戦争なのかは、少なからず正戦論としての検証がなされなくてはならない。まず、「戦争への正義」の観点からみてみる。

第1に、正当な理由のもとになされたかである。アメリカの主張はイラクフセイン大統領という独裁者のもとで、大量破壊兵器を持つ危険きわまりのない国というものである。つまり、イラクは「悪の枢軸」の一端を形成するとんでもない国ということである。まさか、石油利権が欲しくて戦争を開始しましたでは、その正当性は疑われてしまう。一部には、「9・11」に関連するアルカイダにも通じているとの疑惑をアメリカは抱いている。
第2に、アメリカという国家が合法的な国家であるかという問題である。自らは「世界の警察」と称するが、アメリカそのものの戦争執行機関として条件を満足するかである。
第3に、戦争の動機が正しいかということである。これには、第1で述べたことが大きくかかわる。大量破壊兵器の存在やイラク国家としてのテロリスト集団との関わりが問題になり、さらに、アメリカの国益を損ねさせた「9・11」とのイラクとの関わりの問題である。
第4に、「戦争の結果」が「戦争という手段」の悪にまさるものかという判定である。現段階では、イラク戦争によって様々なことが起きている。フセイン元大統領はとらえられたことによって、国民の多くは自由を勝ちえた。しかし、国家は荒廃し、多くの市民と兵士が亡くなり、治安は悪化し国内では自爆テロが頻発する。これを正当に判断するには、まだ、多くの月日がかかるだろう。
第5に、勝利への合理的見込みがアメリカにあったかである。アメリカのシュミレーションがどのような段階までの勝利を予測したものかはわからないが、一応の勝利の道筋は描いたはずである。それがどれほどの「合理的」であったかは、判断が難しい。戦争を進行させながらそれは変わってくるものものである。
第6に、「イラク戦争」がアメリカにとって最後の手段であったのかという点である。開戦までの経過からするとかなり怪しい部分がある。

次ぎに、「戦争における正義」の観点で考えてみる。
第1に、戦争において、イラクの不正を正すために必要以上の暴力が行使されていないかの問題である。アメリカ様々なハイテク兵器をつかい、自分は安全でありながら、相手を確実に殺傷する兵器をつかいだした。例えば、「巡航ミサイル」や「バンカーバスター」などである。アフガニスタンでは「気化爆弾」も使用した。「劣化ウラン弾」もこの範疇にはいるのだろう。
第2に、非戦闘員を意図的に攻撃対象にしていないかの問題である。イラクでは、意図的ではないであろうが、誤射による文民の被害がどれほどであろうか。また、分散型の爆弾は、ピンポイントではなく広範囲を攻撃し、不発弾として残り市民が負傷する場合もある。
第3に、戦争では保護されるべき場所が攻撃の対象にならなっていなかったか。(病院・学校・宗教施設・史跡・文化財など・・・)第4に、自然破壊が最小限にくい止められたか。第5に、使用禁止兵器が使われなかったか。生物・化学兵器など。第6に、文民が強奪や強姦などにあわなかったである。戦闘員が正しくコントロールされいたか。

ところが、このような論議にどれだけの意味があるかという提起もある。「あらかじめ規定された正戦」には、意味があるのかという議論である。これだけの必要にして十分な戦争を始めるための合理化のために、正義の戦争という大義をつくるために、アメリカは努力したはずである。たとえば捏造された大量破壊兵器に関する文書は、まさに正義の戦争のためのカモフラージュである。「あらかじめ規定された正戦」が不正義の戦争の抑止力になりえるのかという命題がでてくる。

湾岸戦争と「9・11」によって、アメリカがどのように変容したのだろうか。劣化ウラン弾の使用が表すものは、戦争における合理化と効率化と差別化のあらわれではないかと推測する。さらに新たな殺戮兵器−バンカーバスターや気化爆弾−は、独裁者もテロリストも地面の穴からあぶり出し攻撃する。惨めな独裁者の姿を一番強烈にアピールする演出に気を配り、空母の甲板で大規模戦闘終結宣言をする大統領は、アメリカの勝利を世界と共有する方法の実践のように見えた。

しかし、イラクへの正戦の理論だてと、それに基づく戦争はアメリカを孤立化させ、世界とのっぴきならない「ねじれ」をつくりだしたのではないか。いまだ、躍起になってアルカイダイラクの関係を見つけ出し、それによって解消しようとする”世界との関係”は何なのだろうか。アメリカが「世界の警察」であり、グローバリゼーションによって領土の拡張と決別して『帝国』であることをさらに拡張して行こうとする原動力は何であろうか。

アメリカが「世界の警察」であるならば、「力こそ正義」であり、力を発揮する手段と場所と理由をもつことがアメリカの正義を強化し補強する。そのためには、アメリカの「力」を世界に露見させる必要があり、それによって相手をねじ伏せなくてはならない。それを満たすためには戦争が不可分であり、世界の各地の紛争にアメリカが主体的に関わる。そのための要件は、「悪の枢軸」であり、「テロ支援国家」であり、「大量破壊兵器保有国」であり、「独裁政権」などである。

当然アメリカは「我々は、祖国の不安と防衛のために戦う。あらゆる国民の自由と世界のために戦う。永久平和のために、敵を徹底的に粉砕するまで戦う」と主張する。かつての露骨な領土の拡大と植民地のぶんどり合戦はない。アメリカを中心として経済ネットワークと政治ネットワークと知識ネットワークが、その基盤にありながら、一国主義としてのアメリカがネグリのいう『帝国』として機能する。まさにアメリカは『帝国』にならんとしている。そのように思ってしまう。

注)正義の戦争であるならば許せるのか
  少なくともであっても・・・
  絶対平和主義との折り合いの問題をどう考えるか。
注)憲法解釈とは別ものとして考えている。