ベトナム戦争の記録

この本において「ベトナム戦争における重要戦闘解説」(p.242-p.249)という章がある。
この部分の書いた西沢優氏は次のような言葉でこのテキストを始めている。

ベトナム戦争は、世界の戦史のなかで、特有の光彩を放っているベトナム戦争は、ベトナム人民が強大な軍事力を投入したアメリカ帝国主義新植民地主義的武力侵略と10年にわたって徹底抗戦し、ついに米軍の撤退、民族の完全独立、祖国の社会主義統一を成し遂げた輝かしい、そして偉大な勝利の戦争である。

この本が出版されたのが1988年であるが、このテキストそのものがその時に書かれたものであるかは不明である。ここにある記述がどれほど正しい認識かは、それぞれの考えに依拠するものである。しかし、ここにある「アメリカ帝国主義」という認識は、かつての帝国主義としての「帝国」をあらわすものだろう。
中山元氏は「ハート/ネグリの『帝国』を読む」で次のことを書いている。
http://www.nakayama.org/polylogos/empire01.html

近代を通じてヨーロッパの帝国主義は、国民国家の主権をその礎にしてきた。しかし今姿を著し始めている帝国(Empire)は、帝国主義(Imperialism)とはまったく異なるものだという。なぜか。近代の帝国主義はほんとうの帝国を構築するものではなく、ヨーロッパの国民国家の主権を外部に延長したものにすぎないからだ。その証拠は、世界のほとんどの地域は、ヨーロッパの国旗の色で塗り替えられたことだ。インドはイギリスの旗の色で、ギアナはフランスの旗の色でなど。そして植民地にされた国は、宗主国の支配のもとで、同じような階層的な政治構造を構築させられ、明確な国境のもとで、他国の支配を排除する。

ここで、旧来の「帝国」がヨーロッパ国民国家の主権を外部に延長したものという概念である。国旗の色塗りを全世界的にどうするのかが争われたという提起である。ヨーロッパ列強が争って世界の国々を植民地化した時代に、乗り遅れてアメリカは世界に侵出してきた。ここには資本主義の雄として、共産圏の拡大を阻止するという名目はあったにしろ、色塗りされた世界の構図の色を変えようとしたこころみがあった。

それは、ヨーロッパからアメリカに世界の機軸を移すこと、資本主義を共産主義の虫喰いから歯止めをかけること、名実ともにアメリカが世界の中心となること、それらのことが謀られた時代であった。

ベトナム戦争アメリカに落とした影は巨大であった。その後のアメリカの世界戦略に多大の影響を与えたであろう。ベトナム戦争が、ネグリの言う『帝国』の概念にどのような影響を与えたのかは興味ある問題である。遅れてきたアメリカが、共産主義への資本主義側の防衛という形で、国家へ戦争という形で介入したとして、それが従来の帝国主義的な行動であったのか、それを検証する時が来ていると考える。

ベトナム戦争湾岸戦争イラク戦争との比較は『帝国』の国境を意識しない侵略との比較において、多分、今回のイラク戦争においてより顕著になると思うが、帝国主義的なものとそうでない帝国の違いを明確にするものでないだろうか。
ベトナム戦争の記録」において次のような記述がある。p.131,L.3

ベトナム戦争は、アメリカ合衆国が世界第一の超大国としての地位を名実ともに確立したかにみえた時期に発生した戦争であった。しかし、無限の新しい可能性を秘めていることがアメリカをアメリカたらしめているとすれば、国力が絶頂にあるかに見えたこの時期は、アメリカの力の限界というものを直視せざるをえない状況に達しつつあるという面で、大きな危機を内側にかかえた時代でもあった。アメリカの指導者は、アメリカの可能性が無限であり、あらゆる挑戦をしりぞける能力をもっていることを世界に誇示する場としてベトナムを選んだ。しかし、そのベトナムアメリカの可能性でなく力の限界を世界の人々に示す場となっていた。かくてベトナム戦争を通じてアメリカの人々はアメリカ神話そのものを問い直さなければならなくなった。

ベトナムアメリカの力を誇示するだけの理由で選んだとは思えない。過去の帝国主義のツメ跡の地でアメリカが新たな役割を示す場所であったことは推測できる。アメリカの介入は、インドシナ半島での確固たる地位を築くものであり、帝国主義による色塗りされた国の色を剥し、それに彩色するものであったろうか。ベトナム戦争帝国主義的戦争であったのかは、それは資本主義陣営と共産主義陣営の色塗りとアメリカの力の誇示という二重の意味で強化されるように思う。同時に、かつての植民地政策による戦争とも違っている。ベトナム戦争アメリカの力の誇示でありながら、同時にアメリカがかかえていた様々な問題を噴出させるホワイトホールとしての役割を果たしていたようにも思う。

それは、映画「地獄の黙示録」で、カーツ大佐として象徴された。エリート軍人の没落と彼の廃園での王の姿は孤独であり空虚であった。エリオットの詩にたくされた彼の魂の表象だけがわずかにそこで生息していた。現在という地点で考えるベトナム戦争は、西沢の言う「アメリカ帝国主義新植民地主義的武力侵略」であったのか、それとも、「現在に引き続くイラク戦争に及ぶグローバリズムの萠芽」としてとらえるのか、二面性を持ちながら螺旋のようにくねって見える。
僕にはそのような影が見える。