「亜細亜主義」と「魂」

27日付けの毎日新聞に「改憲論議の実際と背景」と題して斎藤環氏が論説していた。ここで4冊の雑誌をとりあげていた。外交フォーラム「なぜ自衛隊イラクに派遣するのか」神谷万丈、世界3月号「同時代史考−政治思想からの問い」加藤節、ジュリスト1・1-15日号「護憲的改憲論」大沼保昭、情況3月号「シンポジウム『アジア主義北一輝亜細亜主義とは何か」宮台真司である。

神谷は改憲論の立場から、加藤は護憲論の立場から、大沼はその中庸という立場からの論と分析している。宮台は改憲論に直接的に触れるものではないが、斎藤があえて、ここで宮台の「亜細亜主義」をとりあげることは何らかの意図を感じている。そこでは、改憲の問題よりも、福田和也の「乃木希典」(諸君3月号)に関連させ、宮台の「北一輝」を対応させることに重きを置いている。斎藤の意図は、改憲に関する3つの議論を持ちだしながら、宮台の「亜細亜主義」と「北一輝」に焦点化させたものだと感じている。

それもあって、宮台真司氏のWEBサイトをのぞいてみると、「亜細亜主義北一輝〜21世紀の亜細亜主義」なる文章があった。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=67
MIYADAI.com.Blog
http://www.miyadai.com/index.php
読んでみると、けっこう面白かった。一番興味をひいたのは、「魂」の問題を取り上げていることである。以前の日記で、「労働と魂」という本について書いたが、現代の中で、また、近代化の中で「魂」は避けることのできない問題であることを認識した。これは、グロバリゼーションという流れの中で、宮台の言葉で、「グロバリゼーションによって失われるものがある」という背景にこの魂の問題が大きな意味があるように感じた。

宮台はこの文章で「亜細亜主義」という言葉の反響から切り込んでいる。

 私が「亜細亜主義」という言葉を書き綴るようになったは、一九九九年の「WTOシアトル総会」がきっかけです。当時は「亜細亜主義」という言葉を大量に売れる刊行物の中に表立って書く事には勇気がいりました。ところが実際には拍子抜けで、何の反発もありませんでした。「あ、みんなもう知らないんだ」ということがよく分かりました(笑)。

「何の反発もない」という評価は、忘れ去られた過去へのノスタルジーも感じる。それは、「大東亜共栄圏」という言葉が、侵略戦争のレッテルをカモフラージュするために用いられて、それが正当な評価を受けることができなかった。「あ、みんなもう知らないんだ」という宮台の言葉は、忘れ去られたものというネガティブであるが、論議の土台が共有化されていることを示すものかもしれない。「亜細亜」という言葉によって連想される諸事実が忘れ去られたのか、それとも、無関心であるのか、これらをどのような割合で考えればいいのだろうか。

「何の反発もない」という感慨に通じるものとして、自衛隊イラク派遣問題がある。「自衛隊員の一番のくやしさは、国民の無関心にある」というコメントがあった。

しばらく、劣化ウラン(弾)問題についてこの日記で書いてきたが、その時、様々なWEBサイト(容認派・反対派)を見てみて、その中で、かなりつっこんだ論議がなされた。一方通行の情宣よりも、相互の意見交換に興味があった。だが、一方で劣化ウラン(弾)問題についての無知もそのまま温存されている。論議の中で、意識は高められるが、それが広がらないというもどかしさを感じた。そこには、意識のレベルの差が広がり、さらに、一般論議から遠ざかるものになるのではという危惧をいだいた。

このようなことを書くのは、宮台がいだく「何の反発もない」というあきらめに通じるものを感じたからである。「何の反発もない」から書けるという消極的理由は、国民の意識の低さを露呈するものであろうか。論議が必要であるが、その論議のステータスと一般国民のレベルでの論議と遊離して、かみ合わない−時としてかみ合わせようという努力もしない−情況をつくり出しているように見える。

宮台は「亜細亜主義」の本義を次のように規定している。

第一に、日本は徹底的に「近代化」せねば欧米列強に屠られるより他はない。よって「近代化」を徹底すべし。
第二に、しかし「単純欧化主義」を頼るのみでは、−(中略)−日本は「入れ替え可能な場所」になってしまう。ゆえに「単純欧化主義」たらざるべし。
(中略)
第三は、日本一国より大きく取られた範域で、欧米列強に屠られざるべく、あるいは「近代化」の一定のやり方から来る害悪を取り除く、軍事・経済・文化的なブロック化を志向すべし。

「『近代化』に対して単に『反近代化』を掲げる『ノーテンキ左翼』を脱する機会がやってきたように感じて、感無量です(笑)」には、僕も笑った。しかし、「近代化」がなぜ善なるものか、「近代化」とはどのような構造をもち、どのようにすすめられるものかというような前提議論が不足していた。

宮台が「日本は徹底的に『近代化』せねば欧米列強に屠られる」と述べているが、この論の初めに、グロバリゼーションについて述べている。

 まず最低限の基礎知識から始めます。今日グロバリゼーションと言われるものと、帝国主義時代のグロバーリズムとは根本的に違います。そこから始めましょう。WTOへの反発を理解するためにも大切なことです。帝国主義グローバリズムとは、簡単に言えば、軍事力を背景にした経済的覇権追求です。とりわけ九〇年代以降には、それまでの「国際化」(インターナショナリゼーション)という言葉に替わり、「地球化」(グローバリゼーション)っていう言葉が出てきました。

欧米列強という表現には帝国主義グローバリズムの尻尾が見え隠れするが、そうであれば、現在のグロバリゼーションの中でのハート/ネグリの『帝国』との違和感を感じ、論の一体感がとれていないように思う。これは、宮台流の「あおり」も含まれている表現なのだろう。というのもこの論の中でも宮台は「帝国化−帝国主義化ではありません−」と述べている。

ただ、批判的に書いているが、この「亜細亜主義」という考えには共感を覚えている。アジアの留学生の反発にあい、わざわざ、宮台は「盟主なき亜細亜主義」という言い方をしている。日本のアジアでの位置を確認し、過去の帝国主義の草刈り場になった悲惨で不幸な歴史をかえりみて、そこで「盟主なき亜細亜主義」という考えには発想的に興味がある。

もちろんその背景には、二極化した双極構造であった冷戦構造崩壊後のアメリカによるグロバリゼーションへの危機感−「流動性と多様性が両立不可能ならば多様性を抑圧せよ」−が、「欧州主義」や「亜細亜主義」に反映されている。グロバリゼーションの波が、「流動性」による経済収益に重きを置き、「多様性」が破壊される。
宮台は次のように述べている。

しかし、西郷隆盛に発する亜細亜主義の本義は、まさしく「流動性から多様性を護持」し、「収益よりも共生を重視」する、オルタナティブな近代構想にあると言えるのです。

さて、「魂」の問題である。この論の「北一輝の『転向』と現代的アクチュアリティー」の中で、北の擬古文について、これを現代語訳にすると、「言葉の力」が伝わらないと書いている。

「護持すべきものを万人に伝わるように合理的に説明することは不可能」

また、別の箇所で次のように述べている。

 映画『ソイレント・グリーン』の世界ですな。いいですか皆さん。そういう風に皆さんが思うのかって聞いてるんですよ。さらに言えば、そう思わないとすれば理由は何なのかと聞いてるんです。その理由は経済合理性のような万人に説得可能な合理性ですか。そりゃありえないでしょう。さっきオルタナティブな近代の話をしましたね。流動性よりも多様性を優越させる。収益価値よりも共生価値を優越させる。徹底的に突き詰めるとこの価値観はまさしく価値観であって合理的根拠はない。まさしく「魂」の問題なんです(笑)。

「価値観に合理的根拠がない」とダイタンに述べている。「流動性」より「多様性」を、「収益価値」より「共生価値」を優越させるのは「魂」の問題としている。ここらあたりが、怪しいといえば怪しいが、つまり「護持すべきもの」を判定する価値観も合理的根拠がなく「魂」に帰するかということである。当然のごとく、そこらの批判はコメントに載せられている。

僕は、全てを合理的根拠によって説明することが、それほどの意味があるのかという部分については疑問がある。かといって、それらを「魂」の問題として扱うことにも疑義がある。以前、日記でEBM(根拠に基づく医療)について書いた時に、合理的根拠について考えてみた。その時、根拠に基づく医療において、根拠がデータベース化され、それを利用しやすい形で存在し、さらに検証が可能でなくてはならない。

では、合理的根拠において、その根拠を構成する要素のどこに重点を置くかによって判断が変わってくる。合理性にどれだけ包括させるかの合理性も含まれるのかは問題であるが、結局、根拠を構成する要素の重点の置き方が「魂」の問題に関わるのであろう。「流動性」より「多様性」というような価値観に優劣をつけることは、主体的判断による「魂」の問題と考えられる。

森住卓氏が核の被災地を回って、そこでのルポルタージュを書く。そこに何らかの放射線被ばくによると思われる(森住氏がそう考える)被曝者がいるとき、それを世界に発信する。しかし、そこには合理的な根拠がない(薄い)とき、彼の長年の経験により放射線が原因だと考える。その判断の基準は「魂」の問題に関わる。しかし、それは合理的説明との距離が問題である。森住氏が「魂」として判断することは、彼の生理的正義感に基づくものであっても、合理的根拠との照らし合わせをパラレルに行うべきであろう。

大和魂」が戦争に利用され、その意義を曲げたとき、それを再度、本来の意味に戻すことは困難である。それほどではなく「魂」についても、同様な問題をひそませている。それが意味することが、オカルト的なのか、さらに「魂」という概念で合理性を消し去ることの危険性は十分に考慮されるべきであろう。

戦争によって古い意味の「亜細亜主義」が否定され、戦争に利用された「魂」が拒否された。帝国主義から双極構造、さらにアメリカによるグロバリゼーションという段階で、その危険性が新たな『帝国』による従属を強いるという段階で、「流動性」より「多様性」を、「収益価値」より「共生価値」をというものが注目されてきたと考えられる。ここで、「魂」の問題が新たに提出され、「魂」によって再生されるものが提起されつつある。この宮台真司氏の「亜細亜主義北一輝〜21世紀の亜細亜主義」の意義は、「亜細亜主義」を提案し、「魂」の問題に切り込んだことであると考える。宮台の個人的な「北一輝」への思い入れを差し引いたとしてもそう考えてしまった。