−無視−クリスマス・テロル 佐藤友哉 

熊谷尚人の言葉

「ここは僕の世界の中だ!」ドアが吠えた。
「だから文句をつけるのは不可能だ。って云うか、どこに文句つける部分がある?表面ばかりを大切にしやがる世界なんかと比較すれば、ここは天国じゃないか。食事は塚本さんが持って来てくれるし、紙とペンとインクが嫌になるくらい置いてある」

尚人にとって、世界は表面をつくろい保守的でつまらないものである。その尚人はこの島では役立たずの詩人であり否定される存在である。そのような尚人の作品は小林冬子によって徹底的に無視される。
否定は無視ではない。
それは救いなのか。
魂の救済の話であるべき「クリスマス・テロル」は、日常を否定する冬子が閉鎖空間に迷い込み、そこでの否定の累層構造的生活に身をゆだねる。多分に作者である佐藤友哉は話の最後を規定し、そこから逆説的にストーリーを展開したとき、否定の屍の風景が完成したのだろう。救済であるべき岬は、結局、否定の延長線上の存在として描くほかはない。

ひきこもった尚人の言葉は虚しい。「表面ばかりを大切にしやがる世界」と罵倒してみても、何の説得力もない。生きる事の保障のある世界は、ドアの向こう側にあると思っている尚人は、ドアという境界が、どれほどの意味を持っているのかを過信した。それは尚人の思い過ごしである。母の子宮願望であるならば、それは、無慈悲な砂漠に迷い込んだ人と同じなのだということを理解すべきである。

冬子のテロルは、否定の累積としての尚人の作品の否定でなく、無視なのである。膨大な日常を食い尽くしてできあがった作品の無視である。そう、否定の否定は肯定でなく、否定のドミノ倒しでなく、否定の総体の無視である。