「イラク戦争1年 注目したい新しいデモ」朝日21面 千葉眞

イラク戦争の開始から1年が経過しようとしている。新しいデモの形態についての記事があった。

注目したいのは、米国に追随するだけの日本政府に反対する平和陣営の行動様式の変化である。非戦や反戦を訴える人々のデモや示威行動に新しい形が見えてきた。従来の運動と明白に異なるピース・ウオークやピース・パレードが主流を占めるようになった。旗やのぼり、ヘルメットやシュプレヒ・コールに代わって、個々の参加者のメッセージ、反戦フォークソング、法螺貝などが登場した。隊列を作っているのはシャボン玉を飛ばす少女、車椅子に乗った身障者とその後押しをする若者。犬を連れた若い夫婦だったりする。

僕もイラク戦争にかかわって3回の集会とデモに主催者側として関わった。1回目がイラク戦争が始まった時に、2回目が日本がイラク派兵を決めた時に、3回目が自衛隊本体を派兵する時。1回目が250人、2回目が200人、3回目が200人の規模であった。1回目の時には、多くの呼びかけをせずに、最近としては多くの人々が集まった。イラク戦争に対する自然な怒りをどこかにぶつけたいという人々がたくさんいた。2回目の集会では、壇上のあいさつを廃して、フロアーからの多くの人々の発言を中心にした。20代、30代。40代・・・70代、多くの年代の人々が、それぞれのイラク戦争に対する思いと体験した戦争について語ってもらった。デモ行進については、時間帯がすでに闇につつまれるために、発光体(100円ショップで売っているもの)や、チョウチンを利用したりしたが、千葉氏がいうようなデモにはなりえていない。

さらに、千葉氏は次のように書いている。

従来のデモの主流にみられた、イデオロギー的同質者たちの排他性と過激さについていけなかった人々に開かれている点、組織的締め付けやイデオロギー的束縛が緩められている点、多様な自己表現を容れる幅の広さがあり、諸個人の自発性が尊重されている点、これらは、若い世代の感覚にも即応したプラス面である。

ただ、これも歓迎ばかりではない次のような指摘がある。

フォークゲリラやサウンド・デモの一部は、大音響や自己陶酔的な行為のために疑問符が付されることがある。新しい形態の主流であるピース・ウオークやピース・パレードにも、重要な違和感が表明されている。ジャーナリスト辺見庸氏は、激しい怒りを欠いたピース・パレードは政府の途方もない反動に見合わないと批判する(「世界」3月号)べ平連の元事務局長吉川勇一氏は最近の動きを基本的に支持しつつも、新しい運動論が出ていないことに警鐘を鳴らす。(「論座」3月号)

ここでの批判は読んでいないから、これ以上はわからない。僕としては重要な指摘は次の部分である。

辺見氏や吉川氏の議論はよくわかるが、性急な批判や反論は時期尚早であろう。四分五裂していた新旧の平和運動や諸団体が、今結集の方向に動き始めたからである。

残念ながら、僕はこのような感覚を持ちえない。九州では、相変わらず平和運動が協力も連帯もできていない。それは、結局、政党が平和運動を利用しようと策動するからである。それは、イデオロギーというような高等なものでなく、政党の私利私欲と選挙へいかにつなげるかといった自己欲のためである。色分けされた運動に魅力はなく、参加者はしらけてしまう。既存の平和運動団体が少なからず政党につながり依存する体質がイラク戦争反対集会にしてもデモ行進にしても、つまらないものにしている。
僕が、実行委員会形式の集会を提起して、その会には一度も参加してない政党の幹部(平和関係)が、当日のデモ行進にだけ参加し、それも、先頭の横断幕の所にもぐりこみ、それを新聞記者に撮らせ、新聞に写真入りで載せて宣伝する。排除はしないから、実行委員会に参加し、集会やデモ行進の意味を共有化してもらいたい。
僕は、明日のイラク戦争1年の集会を考えていない。ある集会への誘いはあったが、上記のニオイがぷんぷんして断った。だから、明日はどうしよう。考えるうちに過ぎていくのだろう。