楳図なのだ

[メモ]楳図の予見性とダリ
僕が「楳図かずお」の漫画を最初に読んだのは、焼身自殺した従姉妹が買った少女フレンドに連載されていた「まだらの少女」とか「ママがこわい」の頃だから、昭和40年(1965年)だと記憶する。ということは、すでに40年ほど前のことである。
ユリイカ7月号に「お百度少女」が復刻されていたが、昭和33年の「少女ブック」の別冊付録ということで、さすがに、この記憶はない。この「お百度少女」を読むと、楳図が、土俗的信仰にその根があることがわかる。いわゆる、お百度参りにそのヒントを得ているのである。
ユリイカ7月号は楳図特集であるが、その一文に次のようなものがある。
栗原裕一郎の文章である。

楳図マンガの不気味な予見性
狂牛病という妙ちきりんでおっかなくて聞いたこともない病気がこの世に登場してきたとき、「ああ、チキン・ジョージ!」と呟いてしまった人も少なくないだろう。そのすぐ後、鳥インフルェンザなるちょっと間抜げな名一間だけれどやっばりおっかなくて耳慣れない病気が蔓延し、ふたたび「おお、チキン・ジョージ!!」と漏らすことになるのだが。『14歳』(一九九○〜九五)にかぎらず、楳図かずおのマンガが不気味に予言的であることは、かねがね指摘されてぎた。『へルタースケルター』という『洗礼』二九七四〜七六)ヘのオマージュのような作品を持つ、楳図ファンのひとりである岡崎京子も「いつも時代の10歩先くらいを行ってますよね」と語っていた。

残念ながら、僕は『14歳』を読んだことがなく、ブック・オフでこれを購入しようと思ったが、全巻そろってなくて、さらに、1冊350円の壁を越えることができなかった。近く、購入するだろうけど。
楳図の予見性は、そうだろうなと思ったりするのだが、その感覚的な根源は、なんとなくダリに通じるものを僕は感じることなのだ。みなさんも、そんな感じはしないだろうか。