正戦

戦争での正義とは何であろうか。以前に引用した産経抄では次のようなことが述べられていた。
http://www.sankei.co.jp/news/040918/morning/column.htm

大東亜戦争も同じこと、一方には「白人のアジア侵略に対する聖戦」だったが、一方には「日本の野望をくじき民主主義を守る義戦」だった。

つまり、コラム氏は、大東亜戦争は日本人にとっても白人にとっても「正戦」であったということである、
萩原能久が「最後に善は勝つ!正義の戦争?」で次のようなことを述べている。
http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/lawsemi6.html

正戦論の崩壊
さて、現実にこうした正戦論がどこまで有効であるかは疑問である。・・・そのことは現代世界の多くの国が(日本の「自衛隊」も含めて)自国の軍隊を「国防軍」と称していることからもうかがえる。「これから不当な侵略をさせていただきます」と宣言して戦争を始める国などない。先の太平洋戦争ですら、欧米の帝国主義からアジアを解放し、「東洋平和」を実現するとの口実が用いられたのである。今でも日本の保守政治家の中に、この「正義」を信じ続けている者が少なからずいるように、戦争とはどこまでいっても正義と正義のぶつかりあいに終始する。しかもレフリーらしいレフリーはいない。いたとしても一方の側とグルになった八百長レフリーであることがほとんどである。戦争に一定の歯止めをかけようとする正戦論は、この状況の中で逆効果をもたらす。正義と正義の戦いに妥協の余地はなく、相手方のせん滅まで続くことになるからである。その最大にして最後の例が三十年戦争(1618~1648)であった。一説ではこの戦争によって、最大の激戦地ドイツでは、当時約1800万を数えた人口が700万ほどにまで激減したという。

コラム氏の言うような「日本の正義と白人の正義」がぶつかりあった場合は「正戦論の崩壊」ということである。コラム氏のこのイイマワシは巧妙で、正義と正義がぶつかる戦争において、正義(大義)は相対的であり、正義(大義)を問うことは無意味であるということになる。

▼小欄はこれまで再三、戦争に大義や正義を主張することのおかしさや、うさん臭さを書いてきた。「歴史を振りかえれば、客観的な大義に立って行われた戦争はない」とは作家・塩野七生さんの卓見だが、その見解を借りるまでもない。戦争の大義はすべて相対的なのだ。

さらに、萩原能久は次のようなことを書いている。

正戦論の成立については諸説が分かれるが、その体系化にあたってキリスト教思想の影響は無視できない。ローマ帝国の末期に国教化されたキリスト教は、その教義からして当然のものであった従来からの兵役拒否の思想に変更を迫られることになった。いまや「国家」の一翼を担う制度として、政治の論理と宗教の論理の間の矛盾を理論的に調整する必要が生じたわけである。アウグスティヌス(354~430)によって古典的な形で定式化され、トマス・アクィナス(1225?~74)によって一応の完成を見るカソリックの正戦論は、その課題に対する答えであった。トマスは正戦の条件として、
1)権限のある権威の命令
2)正当かつ必然的な理由(justa causa)
3)正しい意図(recta intentio)
4)適切な方法
を挙げている。1)においては私的な武力行使が禁じられることで戦争主体が制限されることになるし、2)の原則によって防衛戦争や不正に奪われたものの回復に戦争原因が限定されることになる。3)の原理は勧善懲悪のみを容認し、残忍な復讐や権力欲を戒めている。4)の原則は、例えば「倍返し」、「三倍返し」、つまり一回殴られたのに二回、三回殴り返すことを禁じている。この基準の中でも、アウグスティヌス以来、カソリックの正戦論の中で伝統的に重視されてきたのは正当原因論(justa causa)であった。

さらに、「戦争への正義」と「戦争における正義」について記述している。

国際法の父」とも称されるグロティウス(1583~1645)が論及している正戦の基準も本質的にはカソリックのそれと変わるところはない。「平和を保障するための戦争」のみを容認する彼が重視するのも正当原因論であるが、異なるのはその理由づけが合理的なものへ変化していることだろう。「自然法」という、中世以来の神学的概念を用いながらも、彼が念頭に置いているのは、戦争をするのと、しないのとではどちらが有利かという判断だからである。もうひとつグロティウスに関して特筆すべきなのは、一方で彼が「正当原因論」に固執しながらも、原因はさておき、戦争そのものをルール化することによって、戦闘行為の緩和化・非人道性の削減を顧慮していることであろう。ここに国際法における二段階構成が生じることになる。「平時国際法において適用されるべき「戦争への正義jus ad bellum」の問題と、一度戦争が始まってしまった場合に適用される「戦時国際法」に固有の問題としての「戦争における正義jus in bello」の二段階構成がそれである。基本的に現代にまで受け継がれているこうした正戦論の一般的基準を整理しておくと、次のように分類可能である。
1)戦争への正義(jus ad bellum)
  a)正当理由(justa causa)
  b)戦争執行機関が合法的権威であること
  c)動機の正しさ(recta intentio)・・・・・秩序、正義、平和の回復
  d)結果の善が戦争という手段の悪にまさる
  e)勝利への合理的見込み
  f)最後の手段であること
2)戦争における正義(jus in bello)
  ア)比例の原則:なされた不正を正すのに必要以上の力を行使してはならない。
  イ)区別の原則:非戦闘員を意図的に攻撃対象としてはならない。

産経抄のコラム氏は、「正戦」を言い張ることは、それぞれの思いこみで、「戦争の大義はすべて相対的なのだ」ということである。さらに、次のように述べている。

▼誤解を恐れず率直に書けば、イラク戦争大義を問うても始まらない。戦争は正邪善悪の尺度でなく、どう対応するのが究極の国益にプラスか、それを冷徹なリアリズムで量るしかない。イラク戦争はそれを肯定するのがつまるところ国益であり、選択の余地がなかったのだ。

正義や大義などは、相対的でそのようなことを論じても「戦争は正邪善悪の尺度」ではないのだから、「どう対応するのが究極の国益にプラスか、それを冷徹なリアリズムで量るしかない」としている。つまり、国益にとってプラスであれば、戦争に加担するということである。イラク戦争を肯定することは、まさに、国益にとってプラスになるからという論理である。

産経抄のコラム氏は、「正戦」の定義をいかにつきつめても、そのような価値判断は相対的なものであり、絶対的な価値判断はできないから、無意味である。だから、国益にとってプラスであれば、その戦争は肯定できるというものである。この考え方は、ある部分では機能しているが、国益というものを絶対視することになれば、「正義も大義もくそくらえ」ということで、国益にとってプラスの戦争は肯定化される。国益プラス論は動物化するモダニズムの象徴のように思えるのだが、どうだろうか。

ただ、面白いのは、コラム氏の「正義と大義」の相対的尺度による否定は、考えれば、「正戦」をも否定することであり、もし、イラクで大量殺戮兵器が出てくれば、その時は、どうするのだろうか?今更、イラク戦争は正義の戦争だと称賛することも恥ずかしいだろう。アメリカは「正義」をかざし、その名において、正戦の権化であった。それは、相対的な価値判断であり、アメリカはまさに自らの国益のために戦争をしているのであるとコラム氏は宣言していることにもなるし、日本はそのケツナメで国益をプラスにするのである。