JANJANの新方針への疑問

JANJANの新方針を批判するために「わら人形」という言葉をつかった。
「わら人形」というのは、地獄の黙示録でカーツ大佐が朗読するT・S・エリオットの「うつろなる人々」に由来させたものである。
http://www5.big.or.jp/~hellcat/app_now/kurtz.htm
"わたしたちはうつろなる人間
わたしたちは剥製の人間
互いに寄りかかりながら、
頭には藁が詰まっている。ああ!
わたしたちが囁き合うとき、
その乾いた声は静かで意味がない。
枯草の中の風
もしくは乾いた地下倉のなかの
砕けたガラスの上のネズミの脚のように
形式のない形態、色のない影
麻痺した力、動きのない身振り……"

JANJANの編集長はこのエリオットの詩の意味を知るべきである。

JANJANの新方針について
JanJan会員」の廃止について―責任ある言論環境を整えるために―
http://www.janjan.jp/editor/0412/0412101521/1.php
これに関連して、JANJAN掲示板に次のような書き込みをした。

「提案 空虚なわら人形としての存在としてJANJANでないために」
http://www.janjan.jp/bin/bbs/0410/0410209907/1.php?action=all&msg_id=5844&msg_article=19909#bbs

今回のJANJANの決定に失望しています。
このような決定を、編集委員会のみで決定できるのかという疑問もあるのですが、それを行っているのですから、それは編集委員会の権限なのでしょう。(少なくとも編集部はそう考えている)

僕は、この機会に、ぜひ、JANJANの編集部とは別に独立した、JANJANリテラシー委員会を市民記者の中から無作為に選出した委員によって構成し、これによって、記事の問題点や、編集部の削除した「ご意見板」の書き込みの妥当性などを検討してもらうシステムをつくってもらいたい。

今の編集部にこのような提案を受け入れる度量があるでしょうか。

記事に関する重要な質問に回答もせず、まるで、編集部を頂点とするヒエラルヒーのような構造をつくるのでなく、市民記者を中心とするような−つまり、市民記者の意見を記事でだけでなく、編集方針としても取り上げるようなシステムを−ぜひ構築してもらいたい。

そのためには、既存の編集部の中心の編集体制を改善せねばならないでしょう。権力や国家への批判記事を載せるだけで、これが、国家や権力への対立軸としてのメディアの存在意義などというのでは、国家も権力者も少しも怖くはないのです。それは、権力者が権力者であることの様態をなぞって存在するのであって、簡単言えば、JANJANの意思決定機関の一部さえ牛耳れば、どのようにでもコントロールできるメディアの一つにすぎないのです。

権力を批判する側に、一見、肩入れしたように見せかけ、その裏で、市民記者という形でコントロールするならば、それは、権力への奉仕にしかなりません。市民記者のみなさんがどのように考えるのかわかりませんが、そのような形へ、今、再度、立ち返ろうとしているのです。

僕は、個人情報を編集部に知らせていますのが、だからと言って、今回の決定がどうでもいいとは思っていません。

再度、今回の決定を撤回されることを強く要求し、新方針を20日で実行されませんようにご検討下さい。

新方針の実行は、JANJANの死であり、蝉の抜け殻のようなものです。空虚でわら人形の存在として、一方では、市民記者を統率する悪らつさをもつ存在として二重に非難されるでしょう。

これに対してマキシマスさんが次のような書き込みをされた。
「junhigh氏へ」
http://www.janjan.jp/bin/bbs/0410/0410209907/1.php?action=all&msg_id=5847&msg_article=19909#bbs

それに対して、僕は次のような書き込みをした。
「わら人形に鎧」
http://www.janjan.jp/bin/bbs/0410/0410209907/1.php?action=all&msg_id=5851&msg_article=19909#bbs

はじめまして マキシマスさん

僕はあなたと初めての話ですから、最初にあいさつをしておきます。
マキシマスさんの口調は、高飛車で決めつけたように感じるのですが、それは、どこからくるものでしょうか。それはそれとして、せっかく、僕への書き込みですから、僕の書いたことへのマキシマスさんの誤解もあるように思いますので、少しばかり、返答をします。

【新方針の実行は、JANJANの死であり、蝉の抜け殻のようなものです。空虚でわら人形の存在として、一方では、市民記者を統率する悪らつさをもつ存在として二重に非難されるでしょう】

 現状分析、認識が相当、間違っていると思うよ。何度も言うが、JanJanには記事を見る限り、学者、会社員、ライター、公務員、マスコミ関係者などなど、それこそ無数にいるのであって、死んだり、しない。軽々しく「死」などと使うんじゃない。皆、忙しいから相手をしてられないだけだよ。

日本語で、このような掲示板で伝えることは難しいのか、うまく伝わっていません。
僕が書いた「JANJANの死」とは、たとえば、「哲学の死」とか、「近代文学の死」などと同等の用例です。
「JanJanには記事を見る限り、学者、会社員、ライター、公務員、マスコミ関係者などなど、それこそ無数にいるのであって、死んだり、しない。」とマキシマスさんは書かれていますが、様々な記者がたくさんいるからJANJANは死なないなどという意味では、僕は書いていません。
有名なパンカーが「ロックは死んだ」と宣言しましたが、これにちなめば、「JANJANは死んだ」という宣言になります。
ここでの「死」は、編集部がその役割を放棄して、ヒエラルヒーを守るために、保身としての今回の新方針を打ち出したことを指しています。
「皆、忙しいから相手をしてられないだけだよ。」とマキシマスさんは書かれていますが、これも、別に僕の相手をしないからJANJANが死んだとは、僕は一言も書いていません。
今回のマキシマスさんの書き込みは、だいたいこの調子です。


[5847]の冒頭の部分です。

どうしてこうした決定になったかについては、あなたにも大いに責任があるのではないか?それを抜きにして語ってはいけない。あなたはどうやら他所でもJanJanの批判をしているとうだが、到底、JanJanの応援団とは思えない。

「あなたにも大いに責任があるのではないか?」とは、どの部分を指して述べられているのでしょうか。ご指摘下さい。「あなたはどうやら他所でもJanJanの批判をしているとうだが」というのは、推量的表現ですが、これは、僕のblogのことを述べられているのでしょうか。
「JanJanの応援団とは思えない」と書かれていますが、僕は自分のことをJANJANの応援団と自認したことはありません。JANJANが「市民記者による新聞」と称するのであれば、それなりの記者の自覚と責任が必要であり、編集部は新聞発行に対して、メディアリテラシーが必要であると述べています。

ここは2チャンネルではないよ。ちゃんと編集部もあるし、編集委員会もある。あなたは削除という行為自体が、なにやらジャーナリズムの精神に反しているような受け止め方をしているようだが、市民記者コードに違反する書き込みを削除するのは当然ではないか。

JANJANリテラシー委員会については説明不足で申し訳ありません。JANJAN編集部が削除する行為を認めないと言ったわけではありません。緊急性のある削除対象もあると考えます。
ただ、削除したことに対して、その行為が妥当であったのかとか、記事の内容で、盗作や引用のミス、ソースの信憑性の問題などを論議し、それを答申するような委員会を想定したのです。

何しろ、こうしたあなたの意見もちゃんと削除せずに掲載しているではないか。あなたのこれまでの書き込みを見れば、まず、削除されても仕方ない。

掲示板に削除されずに残っているだけでも、ありがたく思いなさいということでしょうか。僕が言っている度量は、JANJANリテラシー委員会を受け入れる意味で、実現できなくても検討するだけでも、という意味の度量であって、ご意見板で僕の意見が削除されないこととは別の話です。
ついでに、「まず、削除されても仕方ない」というのは、マキシマスさんの個人的見解だと思いますが、どうして、「削除されても仕方ない」のでしょうか。僕にはその根拠がわかりません。

あなたからすると、「自分の意見が取上げられない」とそれはJanJanは市民記者の意見を取上げていない、ということになるようだが、それはあまりにも世界が自分中心に回っていると錯覚した飛躍的見解、ということになるのではないか

僕は僕の意見が取り上げられないことと、市民記者の意見を取り上げられていないことを同一視していません。

市民記者というシステムや現在の存在は、JanJanが保証しているものであって、あなたのようなことを考えたら、やはり、あなたが「JanJan」のような会社を作って、同じことをやるしかないだろう。ぜひ、そうしてもらいたい。あなたが、自分の理想とするネット新聞をやればいいのだよ。

論理のすり替えだと思うのですが、僕はJANJANのことを述べているのであって、JANJANの方針が気にくわなければ、自分勝手に他でやればいいではないかというような排除の考えでは、JANJANの浄化機能は保たれるのでしょうか。

これはいったい、どの立場からものを言っているのかな。編集部というものはこのメディアに対して、いいも悪いも責任を負う存在であって、あなたのような「外部の圧力」をもって、編集権というものが発揮されるんだよ。

僕のように個人情報を明かしている「個人」が、JANJANという組織に「外部の圧力」をかけるほどの力はありません。逆に、個人情報を明かしてJANJANに意見を言うことが、どれだけ、「圧力」をかけられる危険を冒しているのかおわかりになりませんか。マキシマスさんがJANJANに対して個人情報を明かされているか知りませんが、まして、JANJAN編集部に大賛成の意見を言われる方にはわからないことでしょう。

あなたは、国家だったり、権力者の立場の人なのかな。どうしてそんなことが言えるのか、分からないな。批判、大いに結構。それがジャーナリズムの王道です。まだまだ、足りない。

僕は、ジャーナリズムが権力に対して批判的であることを問題にしていません。その手法を問題にしています。
僕が書いている「権力や国家への批判記事を載せるだけで、これが、国家や権力への対立軸としてのメディアの存在意義などというのでは、国家も権力者も少しも怖くはないのです」の意味ですが、権力側と同じ構造をもつ(編集長ー編集委員ー編集記者ー契約記者ー市民記者というような構造、さらに、記者の区別も曖昧にしている不透明な構造、一部の団体の宣伝記事についてチェックの構造)ことが問題だと述べています。
権力を批判していながら、権力と相似形の構造では、だめだということです。市民記者という宝をもちながら、編集部とその構造は大手商業新聞の形態では市民記者が活かされないということであり、市民記者が積極的に運営にかかわる方式をとることで、はじめて、権力と対峙する新聞になりえる可能性を秘めているといことです。別に、権力と対峙することだけを強調することもありませんが。

「権力者が権力者であることの様態をなぞって存在するのであって、簡単言えば、JANJANの意思決定機関の一部さえ牛耳れば、どのようにでもコントロールできるメディアの一つにすぎないのです」という僕の記述は、上記のことを意識して、再度、考えてみてください。

困ったね。私は、ここに来るべきじゃないと思うのだが。市民記者であるのであれば、なんというか。「愛」が足りないな。

突然、知らない人から「愛」が足りないと言われても、こちらが困ってしまいますし、「来るべきじゃないと思うのだが」という排除にはうんざりします。

僕は編集部の方針に「大賛成」の意見にも耳を傾けます。
編集部の方針に反対ならば、別の新聞つくれとか、来るべきじゃないとか、そのような排他的なことでは、ますます、JANJANは孤立するのではないでしょうか。

この新方針をつらぬくことは、わら人形に鎧を着せることになるだけです。
僕に「JANJANは死んだ」と言わせないように、再度、新方針の撤回を編集部にお願いします。