アンドレイ・タルコフスキー

 タルコフスキー監督の「惑星ソラリス」の冒頭に水草の場面がある。
 彼の頭脳の明晰さはここに表れている。実は冒頭のこの場面を見逃せない。そのような表現よりも、映像で「惑星ソラリス」の冒頭を観れば、それだけで、意識と物性の問題が解明されるように思う。

 タルコフスキーは水をとりあげる。彼の映画の多くで、水が登場する。僕は、彼が水にこめた思いをを、今までとらえきれていなかった。これからも困難であるだろう。しかし、同時に、おぼろげな入り口も見えてきたような気もする。

 ソラリスの海は意識の海である。別に表現すれば、それは、深淵の入り口であり、出口である。意識の渦巻く、ソラリスの海では意識は物体化される。それは、現実ではすでに死んだはずの妻が、日常の中にそのままで表出する。

 意識を反映するソラリスの上空の宇宙ステーションに、ステーションがスクリーンのようになり、物体そのものとして意識が反映される。それは、現実の幻であり、現実そのものである。タルコフスキーの凄みはそこにある。幽霊でもなく、現実界にそのまま意識が物体化されてしまう。

 そこには、ソラリスの海という圧倒的な意識の渦巻きが必要であった。この映画の最後の場面で、カラクリになるので、これから先は言わないほうがいいかもしれない。意識そのものが現実であるということである。

 彼は、意識→現実(物性)、現実(物性)→意識を見事に示した。これは、いかなる映画よりも、特殊な状況でありながら、成功した表現であったように思う。しかし、それでも、彼はソラリスの海を必要とした。そこに、それまでのタルコフスキーの限界があった。これは、彼の限界という特殊状況を借りて、僕たち一般の脳味噌に電撃をくらわした。

 しかし、それ以後の彼は、ある意味では、ソラリスの海を借りることなく、意識を物性化させていく。それは、彼の映画での水の役割である。彼の映画の水は、ソラリスの海を源流とする水であることを意識的に考えて観れば、それだけで映画を観る感覚が変わる。

 天井からこぼれる一滴の水がソラリスの水であり、意識なのである。ソラリスの圧倒的な水によって、意識を感知することに慣れている僕らにとって、一滴の水はおそろしく退屈である。彼は僕らにそのことを強いながら、実は、その意識の高みまで僕らをいざなおうとした。

 彼の映画を難解だという人がいる。僕は観ていて難解さは感じない。難解だという人は、多分、頭で考え過ぎのような気がする。その映像に素直にひたればいいように思う。その時、水と火が、象徴的な意識の表現であるということを念頭におけばいいように思う。

 タルコフスキーは、水という物質を通して、意識を表現した。水草の揺らめきは、生きているということであり、それは、同時に意識のゆらめきである。物質にしばられた僕らの意識は、自由度を失い極端に、思考の歩みを遅くする。彼の凄さは、そのようなことを、さりげなく、映画の冒頭で語ることだと思う。僕はそのさりげなさが足りずに、生き方をばたばたさせていることに、ケンオとシュウチを感じてるのである。

2002年3月16日に書いたものに加筆修正した。

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