グローバリズム

年末からのレポートを書くことで、「グローバリズム」について調べものをした。その際に見つけておいた関下稔氏の論説「ポスト冷戦時代のアメリカ経済の特徴とその含意−グローバリズム再考−」を今日になって読んでみた。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/campus/bulletin/vol13-3/13-3-11sekishita.pdfグローバリズム」については断片的なものしか見つけられずに、それだけに、今日になってこの論説を読んで、もっと早く読めばよかったと後悔したしだいであった。

この論説の中に次のような指摘があった。

 現在,世界にはグローバリゼーションの嵐が猛威をふるっているが,この問題に接近する際に最初に明らかにしなければならないのは,この言葉の概念規定である。モノ,カネ(短資と長資),ヒト,技術,情報が国境を越えて頻繁に移動し,ボーダーレス化が生じていることをグローバリゼーション 特に経済のグローバル化 と呼んでいるが,このことは伝統的な国民国家の枠組みを一面では基礎にし,また他面ではそれを素通りし,突き抜けていくものであるため,国家の役割の変容を否応なく迫ることになる。とりわけ,逃げ足の速い短期資本やインターネットを利用した情報の国際的な移動は,国家による捕捉困難や管理不能を生みだし,国家の非力化や無力化を吐露させている。ストレンジはそれを国家の退却(retreat)と呼んでいる5)。そしてそれらを基礎とする,伝統的な国民国家体系(ウエストファリア体制)としての国際体制の終焉の嘆きが聞こえてくる。

ただし,戦後の冷戦体制としての国際体制が独立国家の横並びの体制として考えてよいかどうかは大いに疑問のあるところで,私はむしろ覇権国を中心とする双極体制としてこれを理解しており(Pax Russo-Americana),それからすれば,ウエストファリア体制なるものが,戦後は一つの虚構(フィクション)に過ぎなかったともいえよう。それほどに,覇権国アメリカと残余の日欧の大国間との間には格差が存在したし,体制間の対抗という政治的条件はその下で営まれる世界の経済生活を深く規定し,かつ制約してきた。

ここでの第一の指摘は、グローバリゼーションが、世界をボーダレスにして伝統的な伝統的な国民国家(富と権力の機構)の役割を否応無しに変容させるものであること。さらに、それは国家の非力や無力を露呈させる作用をもっていることである。第二に、冷戦構造が、覇権国を中心とした双極構造であったこと−つまり、伝統的な国民国家の横並びは幻想であった−ことを指摘している。

誰もがうすうす感じている国家の変容にグローバリゼーションが大きく関わっていることがここでは述べられている。その思想的機軸が新自由主義であろうが、関下氏は、別の部分では「グローバリズム」そのものがイデオロギーであるとしている。

これらを全体的に概観すれば,経済のグローバル化は資本主義の成立とともに進行してきた不断の歴史的過程であるが,社会主義体制が崩壊した今日,そのことがより一層強く意識されだし,唯一の覇権国アメリカの単極支配と制約なき市場原理主義イデオロギーが蔓延し始めているとみることができよう。そしてそれを深部において動かしているものは,むき出しの致富欲に駆られた資本の運動だといえよう。
「ポスト冷戦時代のアメリカ経済の特徴とその含意(関下)」

グローバリゼーションの原動力を「致富欲に駆られた資本の運動」と述べている。ここには、冷戦構造の崩壊−双極体制の崩壊−によって、アメリカの西側のまとめ役としてのリーダーシップを喪失させ、まさに、アメリカが西側の代表としての資本主義ではなく、覇権的アメリカによる単極主義を指向し出したことを示している。

イラク戦争における開戦までのアメリカの動きを見ても、国連や他の同盟国に対する態度にしても、アメリカに従うのか、従わないのか−まさに、Yes or No−を明らかにすることを求めていた。「イラクフセイン)は大量破兵器を隠し持っている」という理由で、国連の決議を無視してでも、自分のしたいことをする横暴である。

しかし、横暴であろうと、グローバリゼーションによって新しく形成されつつあるアメリカを中心とする世界構造の中で、アメリカを止めることができなかった。これは、戦後の新秩序であるはずの国連の機能の限界を世界に露呈した。

また、関下氏は、重要な指摘をしている。グローバリズムによる資本が「権力」として国家と対立するということである。

資本が一つの「権力」として,至高の存在とされてきた国家に対峙している姿である。そこには国民の国家を乗り越えたいと熱望する資本の思いが横溢している。それは反面では国民国家の最大の構成部隊は資本であったが,経済発展と生活向上,そして民主主義の発展は主権者としての国民の意識と参加を強め,その結果,資本の横暴に制御をかける対抗力が次第に育ってきて,資本自体が少数のものの専有物を脱し,多数者の共有財産に転化する可能性が生まれてきたことをも意味する。このことに現在,資本を占有している少数者が我慢がならないのである。そのため,資本それ自体が一個の権力となって,国家の上位に立とうとしているものであり,はなはだ危険で反動的なものである。
「ポスト冷戦時代のアメリカ経済の特徴とその含意(関下)」

国家というものは、少なくとも法律によって−憲法は国家の横暴を制御するものであると考える−主権者によって制御されるものであろう。しかし、それが「資本」となると、はなはだ厄介なものだと思う。さらに、それが国家よりも上位に立つならば、「資本」によって世界が統制されるのではないだろうか。まさに、これはアメリカのめざすグローバリズムによる新たな世界支配にほかならないように思う。