グローバリズムとidentity(かなり書き換えました)

関下稔はウエストファリア体制を次のように説明している。

近代の国民国家市民社会を基礎に,資本主義経済制度を中核にして構成されているが,この国家の成立の経緯において,富(wealth)に結びつくnation と,権力から派生してきたstate とが合成されて,nation state(国民国家)となった。またnation は民族単位でのまとまりをもったため,外に対しては民族としての主体性を,内においては国民としての一体性(identity)を合わせ持ち,それらはnation という言葉の中に包括されることになった。そしてこのnation state は国際社会における主権国家(sovereign state)として,全て同等かつ対等な地位を確立し,不可侵の存在になる。さらにこれら独立国家群の横並び体制が国際的に形成されてくる。つまり,国家の下での富と権力の包摂化が資本の力によって生じたことである。これがいうところのウエストファリア体制である。
「ポスト冷戦時代のアメリカ経済の特徴とその含意(関下)」

この規定による国家観は、すでに古典になりつつある。つまり、グローバリズムによっての資本の移動によって国家は溶解し、そのものが持つ意味を変貌させているのではないだろうか。国家として規定された空間・その成り立ち・仕組み・方法・規律までもがボーダレスに溶解しているように感じる。それは、まさに、グローバリズムというイデオロギーが資本をもって世界を席捲する当然の帰結なのだろう。

国家間の境は存在しながらも、それは地図上の記号であって、それは国家の間の往来を遮断する障壁にはなりえない。国民国家という概念がその富と民族性に根づくものであれば、現代では富と人々が不確定に移動するものであり、それ自体がグローバリズムによって急激に加速されるものである。富も人々も的確に捕らえる方法を持ちえないならば、実際、瞬時に動く資本を捕らえることは困難であるだろうけど、国民国家の根幹が揺さぶられることになる。

さらに、「国民としての一体性(identity)」となると、現段階の日本において、何においてidentityを求めるかは重要な問題だと考える。過去において、教育勅語に表された家族制度を含めた社会の成り立ちの肯定化と固定化は、どれだけの悲劇をもたらしたかは言うまでもないだろう。天皇の赤子として国民はとらえられ、反国家的な言動は少国民としてさげすまれた。教育勅語は、根本において皇室を中心とした家長制の延長上の概念であり、国民を天皇制のもとで帰属させる方法であった。

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」これは教育勅語における帰結的な部分である。この部分について、高橋哲哉氏は「『心』と戦争」において次のように述べている。

国家の危機、要するに戦争の場合には義勇の精神を発揮して、「天壌無窮ノ皇運」つまり、永遠不滅の天皇の権威のために生命を捧げるべきだ、ということです。これこそ戦前・戦中の軍国主義精神の基礎でした

天皇制という国家的家長制度に国民を帰属させ、そこに家族的な愛国心を織り込ませて国家のために死す事をたたえる精神があらゆる方法で押し付けられた。さらに、帝国の軍人は英霊としてまつられて、死後をもってしてもそれは国家への帰属の象徴にしかなりえない存在として過去に影響を与える。これらの意味において、日本においてidentityを持ちえない状況は、それは、過去の国家主義的方法の復活を招くおそれを感じさせる。

もちろん、あからさまな方法は用いないであろう。たとえば、隠れたベストセラーである「心のノート」は、義務教育年代の子どもたちには無償で配布される。ココロジーエコロジーでソフトに愛国心が語られる。さらに、ひっそりと、全国各地で「国を愛する心」が評価の対象にさせられるのである。

さらに、関下は次のように指摘している。

グローバルキャピタリズムといった場合には,これらの客観的な過程やその推進思想に加えて,グローバルスタンダード(標準)やグローバルガバナンス(管理),さらにはグローバルデモクラシー(統治)などの問題を含めなければならず,より包括的な扱いが必要になる。というのは,行論からおわかりのように,現下の,むき出しの市場万能主義的,拝金主義的,投機的な致富要求の発露としてのグローバリゼーションの進展が,はたしてデモクラシーを育て,個性を尊重し,多様性や多元性を養い,政治的安定をもたらすのだろうか,はなはだ疑問だからである。
「ポスト冷戦時代のアメリカ経済の特徴とその含意(関下)」

僕らが持つべきidentityを見つけられずにいるうちに、過去の亡霊どもが日本を席捲している。それは、教育基本法の「改正」による国家主義愛国心の復活であり、国家による心の統制である。さらに、グローバリズムによる国家の溶解は、一見、国家の統制力を弱めさせるのであるが、同時に、幻想の国家体制を希求させることにもつながる。権力者は、やみくもに溶解する国家に対し、それを堅持する強烈なidentityを欲しがるように思う。それだけに、安易に僕らが、旧来の否定したパンドラの箱を開ける日も近づいてきたことを表しているのかもしれない。そう思ってしまう。