「『帝国』秩序と仏教の逆襲」 野田宣雄、宮崎哲弥(諸君4月)

貧弱な「帝国論」の流行という部分で、帝国論がさかんなことを復古的にとらえているが、ここらあたりの見識はどのようなものだろうか。アメリカを「帝国」としながら、「副次的帝国」として、欧州中西部でのドイツ、欧州東部中央アジアにおけるロシア、東アジアにおける中国をあげていることは興味があった。
それよりも気になったのは、「地域コミュニティーを活性化できるか」での野田は次のように発言している。p.188

今後、日本が新たな時代状況のなかに確固たる地位を占め、帝国的な茫漠たる支配を周辺に及ぼしていくために、避けて通れないひとつの課題があります。それは、近代国民国家という枠組みよりも小さなエスニック・グループや、地域社会のコミュニティーを育て、それらを共存させる術を学んでいく、ということです。

「帝国的な茫漠たる支配」というものと宮台の「亜細亜主義」との関連はどのようなものかと考えるが、どちらにしても、「地域社会のコミュニティー」を重視することについては賛同する。
さらに宮崎は、次のようにコメントしている。

新しい「帝国」の時代、つまり国家が否応なく後景に退いてしまう時代に、国家よりも下位のコミュニティーをいかに再生するか、または新たに創造するかは、日本人の大きな課題でしょうね。

さらに

日本ではいま、「三位一体」の改革とかなんとか、掛け声ばかり威勢がよい。しかし、実際に行われていることといえば、市町村を無定見に合併して、伝統の重みも、文化の趣も感じられない平仮名の名前をつけているだけでしょう。そんなのをさらに広域化して道州制にしたところで、人々のアイデンティティの帰属先にならないし、国への過剰な依存からは脱却できないでしょう。まあ、財源移譲や権限拡大も大事な制度改革だと思いますが・・・。

帝国主義的帝国」ではなく、野田の指摘するある種「帝国的な茫漠たる支配」としての「帝国」は、当然、グローバリゼーションとつながる。ただ、ここでは、そのような「帝国」が、それを強化する意味で地域の問題を意識することに抵抗を感じた。多分、そのような帝国が、アイデンティティを喪失させることへの不安からであろう。アメリカの場合、地域コミュニティーとさらに、それぞれの人種によるコミュニティーがあり、それらの複合体として、国家のアイデンティティ(世界の正義)が創出されながら「帝国」が形成される。日本の場合、地域コミュニティーの破壊がすすみ、さらに市町村合併はそれを加速させる意味しか持たない。
僕の場合は、日本の「帝国」化の問題は、かなり意識した言い方では「亜細亜主義」につながるものだと考える。ただ、かつての「大東亜共栄圏」としてでの意味では、その価値は旧来の帝国主義の意味でしかなく、何らの新味もない。このままでは「帝国」としてのアメリカや、アジアにおいては「副次的帝国」である中国によって、コントロールされるおそれがある。
それに対して、日本がアメリカの「帝国」としての傘に生きるかということであるが、それは、イラク戦争や安全保障問題を含めて考えると、現政府はその方向を模索しているのであろう。それは、ある意味では、日本の「帝国」としての位置を放棄するものである。「帝国」に階層的なものはなく主従もないである。
宮台真司の「憲法の改正」の主張の根底に、「亜細亜主義」としての憲法の有効性とアメリカの「帝国」のブロックとしての日本の存在への忌諱を感じる。それは、再度、アジアが「帝国」や「副次的帝国」によって解体され、主体無き自立をせまられることを意味する。もちろん、その中に日本がふくまれ、「帝国」追従としての理念無きイラク派兵、国家主義的説明不足の「国益論」、構造改革という名の地域破壊が日本を解体していることを国民に無自覚にさせている。そのように思った。