−深刻−クリスマス・テロル 佐藤友哉 

熊谷尚人の言葉

六千人のためだけの物語を書くなんてごめんだね。そしてそんなのは、この鍵のかかった部屋で自分だけのために物語を書き続けていられる誘惑には勝てない。

尚人は拒否することは自由だ。別に書くことが義務ではないのだから。しかし、尚人の作品を待ち続けるものが六千人だとして、その六千人は尚人を待っている。尚人が部屋に閉じこもり、自分だけの世界を構築することに没頭するのであれば、六千人の人々はとりのこされるであろう。
僕が学校の校長室で校長の肖像写真は、都会だろうが、田舎だろうが、規模が大きくても小さくても、初代の校長から順に並べてある。この写真どもを見る時、教育の一貫した問題を感じる。連続と象徴なのだが。
このような問題がどうして熊谷尚人と関連するかといえば、尚人もあの小屋で消えるまで「連続と象徴」であった。あの小屋から幼稚なトリックで突然と消える。それまでは「連続と象徴」であった。連続とは、日常である。象徴とは、保守である。歴代の校長が現校長を取り囲むように見下ろすのと同じように、尚人は、連続する日常で自分を変えずに作品を作り続けた。それをやめたんだ。方法もペンとインクに変えてね。

幼稚なトリックと書いた。
そう、幼稚だけど深刻なんだけど。
常として幼稚なことほど深刻なんだ。

それに、テロルはヒトを殺すことではない。
テロルは、ヒトの生きた証を消滅させることなんだ。
小林冬子の行為はだからテロルなんだ。

最後に、幼稚だけど深刻なこと
女子中学生の冬子がそれをなしたことである。
もう、尚人のことも冬子のことも書かないだろう。