政教分離に対する僕のイメージ

政教分離のイメージを自分なりに書いてみます。
憲法は、国がどういうことをしてはいけないかを基本的に書いている」と僕は考えています。(統治権力への命令)そのような考えをもとにして、憲法20条3項をを解釈すれば、国が宗教的な活動を行うことを禁じています。
この憲法の精神のなりたちは、多分に、先の大戦と大戦の前において、国家が国家神道を通して、また、その他の方法において、国民を戦争へかりたことによると思います。(戦争の大義はぬきにしても)
そこで、政教を分離して、国が宗教を利用すること、また、宗教が国を利用することを憲法で禁じたものだと考えています。
判決文でも、国の「宗教的活動」をどのように認定するかを論じていますが、それが、どこまで有効であるかは別にしても、そのような判断のもとに、政教を分離するしか(方法論的には)ないと考えます。

ただ、僕は「祀る」という意味が、それだけに終わるものかは疑問に感じています。
僕の祖母は次男をニューギニア沖海戦で亡くしています。今も遺骨はありません。長男は満州国に測量に出かけ、帰国後、悪性の風邪をこじらせて死亡しました。長女は、呉で米軍の戦闘機に機銃掃射で殺されました。次男は、靖国に祀られていますが、長男はどうかわかりません。因果関係がはっきりしていれば、靖国神社合祀対象者の(2)準軍属及びその他「ア満州開拓団員、イ満州開拓青年義勇隊員、エ南方及び満州開発要員」のどれかに属しているのかもしれません。

靖国では「祀ることは、神になること」だと単純にわりきれない問題があると思っています。これは日本人の民族的土着性−柳田國男の研究など−を読み解く必要性もあると考えます。靖国には、憲法問題・政治的問題・戦死者などを祀るなど幾層の問題をかかえる問題です。

そうは言っても、僕の現在の立場は、政教を分離することが必要であり、その点において、首相が靖国に「公式に参拝」することには、寛容にはなれません。