政教分離と啓蒙思想

啓蒙思想についても疎いのですが、以前、教育基本法の「改正」問題を考えた時、議論の出発点の一つが、やはり啓蒙思想ではないかと考えました。ここでは、スレッド違いですからふれません。
日本国憲法では、前文において「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と謳っています。条文では第1条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあります。ここらあたりが、現憲法のあやふやさではないかと思います。第1条は、「日本国の主権は国民にある」というような形で明確にしてもらいたいと思います。

なぜなら、swan_slabさんが述べられるように、啓蒙思想から政教分離の原則が派生してきたと思います。つまり、国家・権力・国民(民衆)という概念が確立してきて、信託と契約という国家権力の行使に関する基本的関係が生まれ、さらに大きな影響力を有する宗教と政治が分離独立する政教分離という概念が生まれてきたと考えます。そうでなければ、主権者が主権者としての機能をはたすべき信託が有効性を発揮しないように思います。ホッブズとかロックがこの部分の先駆者だと思います。

憲法前文の冒頭に「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」とあります。正当に選挙された国会議員に、国民は権力を信託したことになると思います。そこで、信託した代表者が「主権者である国民との契約を果たしているか」を見る原則が憲法ではないかと思います。ところが、第1条は、【天皇の地位・国民主権】を同時に規定し、国民主権の契約関係があいまいではないかと考えます。

僕は「九条の会」に不満を感じていますが、その一つが、9条に関連してこの1条こそ取り上げねばならない重要課題だと思いますが、その観点が抜けていることです。これまた、スレッド違いですから、ここまでにします。

憲法を契約上の「統治権力への命令」として見るなら、国家の三権に関する者(主権者の信託者)が、勝手に、ある宗教とのかかわりを公的な立場で、公費をつかうなどして、特段の優遇をするならば、それは契約違反の可能性が出てきます。
啓蒙思想の発展の段階から見ると、主権者の「信教の自由」が、国家権力が政教分離しないならば、侵害される可能性が大だと思います。戦前の日本での国家神道がまさにその例ではないかと思います。

憲法20条1項後段及び3項、そして89条の規定の制定経緯として、啓蒙思想から始まる権力と国家と国民主権の考えからすると、これは歴史の必然としての条文だと思います。ただ、日本の場合は、啓蒙思想の始まったEU諸国と大きな宗教的な考えの違い(例えば、八百万の神、土着信仰など)があり、また、天皇の存在も象徴という形で、権力関係でも整理されたものではないように思いますから、すんなり、このような考えと合致するかが難しい問題だと思います。

昭和天皇の「人間宣言」については、逆に、それまでは天皇が「神」であったことを認知する結果になったかもしれません。宗教性の違いは、単純に割り切れるものでなく、また、靖国には、戦前の国民と大日本帝国の契約関係(国家神道としての国家にむくいる死)があり、それは、国家体制が代わっても、契約は更新されたと思いますので、恩給・遺族年金についての議論は簡単ではないように思います。(感情論的になりがちですし)