恐怖

 フクロウ先生の盗撮を見て、以前に書いたもの
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フクロウ先生の盗撮を見ているとシャイニングのビデオの写真があった。どうも、シャイニングの完全版が出たということらしいが、僕が見たのはどうだろうかと考えたら、不完全版だったのだろうか。地獄の黙示録も完全版が出たので同じようなものであろう。映画の世界ではよくあることで、映画界の商売としてはリメークして2度おいしいということかもしれない。最近では、エクソシストの例もあったように思う。

 この映画シャイニングでは冬の別荘地が舞台であった。このホテルは冬には全く外界から閉ざされている。ここに家族が管理人として済むのである。冬の巨大なホテルの中に家族だけが住み、やがて父親が取り憑かれたように変わっていく。

 恐怖映画の設定ではほとんどの場合、外界から閉ざされた空間がひとつの舞台となっている。ここでは外界から閉ざされているというのが大きなポイントのように思う。つまり閉鎖された空間の中で起こる恐怖である。ということはその世界では他の場所へ逃げることが、非常に困難な状態だということである。つまりその恐怖から逃げ出すことが困難である主人公は恐怖と対峙しなければならないのである。
 
 ところで人間の恐怖というものは、どのようなものであろうか。先程の映画の例のように、閉ざされた空間での恐怖というものがあると思う。ここでの恐怖は、逃げられないという恐怖である。つまり閉鎖された空間では循環する以外はないのである。そのような時に、恐怖と対決する方法は外界と連絡をとるか、外界へ逃げ出す道を見つけるか、または恐怖を抹殺するか、そのいずれかの方法をとるしかない。

 このパターンの恐怖映画はよくある。例えばキャンプ場のような野外空間では、途中に深い森を通ったり、またそこへいくためには細い壊れやすい橋を通るなどの状況を通して、ぼんやりとした閉鎖空間が作られている。その中で恐怖は増殖するのである。また、物体Xのように不毛の南極という絶対的な閉鎖空間も恐怖の場所として使われる。

 このようにしてつくられた閉鎖空間の中で、主人公は恐怖に追われるというのはよくあることだ。追われるときに主人公は袋小路に行き詰まったり、さらに閉鎖された小さな空間に逃げ込んで、恐怖がそれに迫ってくるというのがよくあるパターンである。


 さて、人間のこのような恐怖の意識というのは、どこから出てくるのであろうか。その根本を考えると、死への恐怖というものに行き着くように思う。つまり、死後の世界というものを、果たして、私たちは関知できない。関知できないものに対する恐怖である。それは、関知できないという閉鎖空間に追い込まれることである。この空間に迷い混んだら、逃げ出せないという恐怖である。

 私たちはいろいろな認識の道具を持っている。しかし、それは私たちが生存している世界だけで有効である。いったん死後の世界に行くと、それはまったく無効なのである。

 僕たちが持ち得た科学技術にしてもそれは生きている世界だけで有効であり、死後の世界を推測できる道具ではない。なぜなら、科学は、私たちの五感を通してしか、成り立たない世界なのだから。だから、心霊などの世界がそこに存在ができると思うのである。
 死語の世界はまったくの暗黒の世界なのである。その中で私たちの存在というものはどういうものであろうか。また、その世界での僕たちの感覚というものはどのような存在なのであろうか。疑問はいくつもわき出てくるが、それに対する明快な答えは私たちは持ちあわせていない。そこで現れてくるものが宗教である。宗教の死生観などを通して私たちは死後の世界に安らぎを求める。

 しかし、恐怖映画が見せるものは、時には宗教を超えたような恐怖であり、追い詰められた人間は、宗教に頼ることも出来ずに、自分でしか解決できない。かっての恐怖映画では、ドラキュラは十字架を嫌い、そこには宗教的な威光があったように思う。エクソシストなどに見る悪魔払いでは、やはり宗教の力が悪魔に打ち勝つのである。しかし、そのような悪魔VS宗教という図式の映画から、最近の恐怖はだんだんと個人に分解された恐怖へと変わってきているように思う。

 つまり、祟りとか怨念とかそういうものが襲う個人への恐怖である。それを単純にテレビでは霊媒師が出てきて追い払うのであるが、僕にはあまり宗教的な力を感じることができない。そこには宗教というより、霊媒師VS悪霊としての図式が浮かんでいる。個人の超能力による悪魔払いが最近の主流で、その世界でも、宗教という権威は失墜し、さらに渾沌の様相を深めているように思う。21世紀は、科学も宗教も僕らの暗闇を照らす道具としては、まだ、十分ではないのであろうか。