「何をしていいのかわからないとき」

早春の陽は川面のきらめき
網膜のけぶった空は盲点のざわめき

何をしていいのかわからないときは
透明ガラスのコップに水をあふれさせて
一息に飲もうよ
僕は僕だけのことを考えて
君のカケラもないように

何をしていいのかわからないときは
水色のロウソクに火をともし
炎を見つめようよ
僕は僕だけのことを考えて
君のカケラもないように

君のカケラ集めて
何をつくろうとしたの
君のカケラ集めて
再生させようとしたの

何をしていいのかわからないときは
僕は4Bの鉛筆で画用紙に
ボードレールの詩を写す

  *以前に書いたもの

 恐怖

 フクロウ先生の盗撮を見て、以前に書いたもの
***
フクロウ先生の盗撮を見ているとシャイニングのビデオの写真があった。どうも、シャイニングの完全版が出たということらしいが、僕が見たのはどうだろうかと考えたら、不完全版だったのだろうか。地獄の黙示録も完全版が出たので同じようなものであろう。映画の世界ではよくあることで、映画界の商売としてはリメークして2度おいしいということかもしれない。最近では、エクソシストの例もあったように思う。

 この映画シャイニングでは冬の別荘地が舞台であった。このホテルは冬には全く外界から閉ざされている。ここに家族が管理人として済むのである。冬の巨大なホテルの中に家族だけが住み、やがて父親が取り憑かれたように変わっていく。

 恐怖映画の設定ではほとんどの場合、外界から閉ざされた空間がひとつの舞台となっている。ここでは外界から閉ざされているというのが大きなポイントのように思う。つまり閉鎖された空間の中で起こる恐怖である。ということはその世界では他の場所へ逃げることが、非常に困難な状態だということである。つまりその恐怖から逃げ出すことが困難である主人公は恐怖と対峙しなければならないのである。
 
 ところで人間の恐怖というものは、どのようなものであろうか。先程の映画の例のように、閉ざされた空間での恐怖というものがあると思う。ここでの恐怖は、逃げられないという恐怖である。つまり閉鎖された空間では循環する以外はないのである。そのような時に、恐怖と対決する方法は外界と連絡をとるか、外界へ逃げ出す道を見つけるか、または恐怖を抹殺するか、そのいずれかの方法をとるしかない。

 このパターンの恐怖映画はよくある。例えばキャンプ場のような野外空間では、途中に深い森を通ったり、またそこへいくためには細い壊れやすい橋を通るなどの状況を通して、ぼんやりとした閉鎖空間が作られている。その中で恐怖は増殖するのである。また、物体Xのように不毛の南極という絶対的な閉鎖空間も恐怖の場所として使われる。

 このようにしてつくられた閉鎖空間の中で、主人公は恐怖に追われるというのはよくあることだ。追われるときに主人公は袋小路に行き詰まったり、さらに閉鎖された小さな空間に逃げ込んで、恐怖がそれに迫ってくるというのがよくあるパターンである。


 さて、人間のこのような恐怖の意識というのは、どこから出てくるのであろうか。その根本を考えると、死への恐怖というものに行き着くように思う。つまり、死後の世界というものを、果たして、私たちは関知できない。関知できないものに対する恐怖である。それは、関知できないという閉鎖空間に追い込まれることである。この空間に迷い混んだら、逃げ出せないという恐怖である。

 私たちはいろいろな認識の道具を持っている。しかし、それは私たちが生存している世界だけで有効である。いったん死後の世界に行くと、それはまったく無効なのである。

 僕たちが持ち得た科学技術にしてもそれは生きている世界だけで有効であり、死後の世界を推測できる道具ではない。なぜなら、科学は、私たちの五感を通してしか、成り立たない世界なのだから。だから、心霊などの世界がそこに存在ができると思うのである。
 死語の世界はまったくの暗黒の世界なのである。その中で私たちの存在というものはどういうものであろうか。また、その世界での僕たちの感覚というものはどのような存在なのであろうか。疑問はいくつもわき出てくるが、それに対する明快な答えは私たちは持ちあわせていない。そこで現れてくるものが宗教である。宗教の死生観などを通して私たちは死後の世界に安らぎを求める。

 しかし、恐怖映画が見せるものは、時には宗教を超えたような恐怖であり、追い詰められた人間は、宗教に頼ることも出来ずに、自分でしか解決できない。かっての恐怖映画では、ドラキュラは十字架を嫌い、そこには宗教的な威光があったように思う。エクソシストなどに見る悪魔払いでは、やはり宗教の力が悪魔に打ち勝つのである。しかし、そのような悪魔VS宗教という図式の映画から、最近の恐怖はだんだんと個人に分解された恐怖へと変わってきているように思う。

 つまり、祟りとか怨念とかそういうものが襲う個人への恐怖である。それを単純にテレビでは霊媒師が出てきて追い払うのであるが、僕にはあまり宗教的な力を感じることができない。そこには宗教というより、霊媒師VS悪霊としての図式が浮かんでいる。個人の超能力による悪魔払いが最近の主流で、その世界でも、宗教という権威は失墜し、さらに渾沌の様相を深めているように思う。21世紀は、科学も宗教も僕らの暗闇を照らす道具としては、まだ、十分ではないのであろうか。

「都市型」という「勝ち組指向性」の言葉での保守の市場化

僕の日記の「新保守の都市型リベラルのとりこみ」で宮台についてはとりあげた。
http://d.hatena.ne.jp/junhigh/20050916
宮台の「民主党がとるべき道とは何か(インタビュー)」
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=283

宮台真司の今回の選挙に関するコメントが出る頃だろうと考えていると、僕の(はてな)アンテナにひっかていた。
選挙結果から未来を構想するための文章を書きました
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=302

■不安と不信が高まろうが国際競争に遅れじと“グローバル化&効率化”を目指す「都市型保守」。多少非効率でも内発性や信頼のベースたる自立的相互扶助を護持せんと“自治&補完”を目指す「都市型リベラル」。双方が都市浮動層を綱引きする「新二大政党制」

宮台の今回の選挙情勢の読みについて、僕は同調することが多い。僕の立場は、「都市型リベラル」に近いと感じている。「リベラル」という響きの良さを僕は感じるが、そのような意味でのこの立場に立つことは感心しない。「保守」ということが「カッコ悪い」時代が終わり、それは保守に装飾された「都市型」という「勝ち組指向性」の言葉で保守は市場化するのだろう。
雑誌宝島が株で大金持ちになろうという特集が、20代から30代を指向しながら展開する今は、僕が読んでいた植草甚一の頃のそれと比較しても意味がないかもしれないが、この雑誌がトレンドするものに敏感というのであれば、勝ち組指向がそれだけに強い時代ということだろう。

「オタク左翼」としての日本共産党

選挙後の総括について日本共産党のサイトを見てみた。
総選挙の結果について
2005年9月12日 日本共産党中央委員会常任幹部会
http://www.jcp.or.jp/giin/senkyo/2005_syuin/20050912_com.html

今回の総選挙で、日本共産党は、改選前の9議席を確保しました。比例代表選挙で、得票率を若干減らしたものの、得票数を伸ばし、492万票を獲得しました。この結果は、善戦・健闘といえるものです。常任幹部会は、ご支持をいただいた有権者のみなさん、猛暑のなかで奮闘された支持者、後援会員、党員のみなさんに心からお礼を申し上げます。

共産党ほど、現状分析能力がない政党もめずらしい。「比例代表選挙で、得票率を若干減らしたものの、得票数を伸ばし、492万票を獲得しました」とあるが、投票率が高いから得票数が伸びるのは当然であり、「比例代表選挙で、得票率を若干減らした」という事実を分析することが大切である。
同サイトより

 今度の総選挙は、小泉首相が周到な計画をもって奇襲的に仕掛けてきた選挙であり、"小泉突風”がふきすさぶ難しい条件のもとでのたたかいでした。

「奇襲的に仕掛けてきた選挙」とあるが、これも小泉首相は、何度も、郵政法案が否決されれば、解散すると言っていたのであり奇襲とは思えない、そう考えるのであれば、それは分析力の欠如ではないだろうか。
同サイト

わが党が、難しい条件のもとでの選挙に正面からたちむかい、「政権交代」を呼号した民主党議席を大きく失うなかで、得票を増やし現有議席を確保したことは、この間の国政選挙での連続的な後退を押し返したものであり、今後の本格的な前進を築くうえで重要な土台となるものだと考えます。

これにはあきれてしまう。楽観的というか、得票数は投票率から考えて増えなければおかしいことである。「後退を押し返した」とは到底言えない結果だろう。

情勢は、「たしかな野党」としての日本共産党の奮闘を求めています。わが党は、新しい国会で、郵政民営化に真っ向から反対をつらぬき、庶民大増税憲法改悪を許さず、国民のくらし・平和の守り手として、「野党としての公約」を実行するために全力を尽くします。

「たしかな野党」というコピーは、共産党が「オタク左翼」路線をとったことを示すのだろうか。「野党としての公約」が「政府への反対」だけであれば、それは、実現できても日本の幸福にどれだけつながるのだろうか。孤立無援の政策をユートピア的に論じても、国民の気持ちをどれだけとらえられるのだろうか。